そんな感覚的な素地があったから、縄文土器から弥生土器への変遷についても、極めて素直に文化の進歩のように、つまり、劣った過剰装飾の時代から進んだ機能的デザインの時代へと「進歩」したのだと、全く深い考えもなく感覚的に納得していたように思う。
後に知るのだが、これは無知な子供の感覚であったというよりも、その時代の日本美術史の正統な感覚でもあったようで、縄文のデザインはグロテスクな原始的感性とさえ言われていたようだが、それに大岩のような一石を投じたのが岡本太郎氏であったらしい。また、考古学の立場から控えめではあるが評価した中に佐原真氏がいたようだ。
これも爆発だろうか (近鉄奈良駅東向南商 店街すぐの店にある) |
そして今・・・・、企業戦士と揶揄される環境から一歩身を引いた立場から落ち着いて縄文土器を眺めてみた場合、「飾らずにはいられない」という、たぎるような縄文人のパッションと心の奥深さが、素直に、極めて素直に心臓に響いてくる。
縄文人は、土器を作ること、日々の生活を送ることを楽しんでいたんだ。
佐原真氏流に言えば、戦争を始めたのは弥生人からなのだ。(弥生人の体内から鏃(やじり)が出たり、戦死の痕跡が顕著になるらしい。)
無性に「三内丸山」に行ってみたい。
日本列島の縄文の先進地は圧倒的に東北だったといわれている。
蛇足・・・近鉄奈良駅前の商店街を何故「東向き商店街」というかというと、この道の東側はその昔興福寺の塀が続いており、その道の西側に東向きに各店が並んでいたかららしい。というと、この変な名前もありがたい気がしてくる。
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