読書の場合、漠然と自分が考えていた事柄を、多くのデータをもって論理的に承認してくれたときにはある種の爽快感があるものだが、反対に、何となく自分が信じていた事柄を、違う段階から否定的に論破されるのも、自虐ではないが満足感に満たされる。
内田樹・岩田健太郎著『リスクを生きる』朝日新聞出版・朝日新書を読んで、大いに後者の満足感を味わった。本の中での二人の会話をほんの一部だけを摘んでみると、
しかし、コロナウイルスや感染症対策に「条理」や「内的論理」などない。神の懲罰だとか宇宙の摂理ではない。『ファクターX』も結局何も証明されていない。「世界には法則がある」として解き明かすのも科学性だが、「世界はランダムで予測できない」というのも科学的見地だ。
さて私は、いうなれば唯物弁証法の哲学の見地から「さらに原子核の中に何かが必ずあるはずだ」として中間子を予測した湯川秀樹氏のような姿勢に学びたいし、人類は徐々に次の段階の法則性を見つける連続の過程にあるのだろうという思索方法を癖にしてきたから、前述までの「コロナは不条理だ」論にはある種のショックを受けるが、「それでも人類は様々なパンデミックを経験してきた」「コロナが完全に解明されない段階でも感染症対策の経験と理論はある」という理論に大いに学ばなければならないと考えた。
読書感想にも至らないが、非常に読みごたえがあったし、勉強になった。字数もそれほど膨大ではないので、よかったら一読をお勧めする。
世の中ではシンプルなキャッチコピーがもてはやされている。テレビのコメンテーターなるものの多くもそうなっている。曰く、コロナはインフルエンザとあまり変わらない。ワクチンはデメリットの方が大きい。経済の落ち込みの方が重大事項だ、などなど。一つひとつの検討、反論も大事だが、嘘を見抜く常識力がさらに大事ではないだろうか。
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