そののちコノハナノサクヤ姫はニニギにみごもったことを述べると、ニニギは「たった一夜の交わりでみごもったとは信じられない。他人(神)の子だろう」と疑ったので、「産屋に火をつけて生んでお目にかけます。貴方の子でなければ死ぬでしょう」と実行し、3人の子を産んだ。そのうちの2人が海幸と山幸で、弟の山幸がホオリノ命である。
ホオリノ命は「釣り針事件」で竜宮に行き、トヨタマ姫と結婚し、そののちトヨタマ姫は地上の産屋でお産に臨んだ。姫は「元の姿になるのでけっして覗くな」といったがホオリノ命が覗くとトヨタマ姫は大きな「わにざめ」だった。「わにざめ」になってお産したのを見られたトヨタマ姫は恥じて海の底の国へ帰ってしまった。生まれた子がヒコナギサタケウガヤフキアエズノ命である。
トヨタマ姫は海の国に帰ったが、代わりに妹のタマヨリ姫を遣わした。
ヒコナギサタケウガヤフキアエズノ命は母の代わりに来た叔母のタマヨリ姫と結婚し、4人の子どもが生まれた。その一番下の子が、カムヤマトイワレビコノ命で後の神武天皇である。
つまり、神武天皇の母は「わにざめの妹=わにざめ」であった。これらは日向の地のことである。
こののちカムヤマトイワレビコノ命(神武)は兄のイツセノ命と共に、豊の宇佐、筑紫、安芸、吉備を東征し、浪速から河内湾を上り、大和のナガスネビコと闘った。その際、船に積み込んでいた盾を岸辺に立てて向かったので、この地を『盾津』という。余談ながら2600有余年後の私の生誕地である。
この戦で兄のイツセは矢が刺さり、迂回のため海に出て手を洗ったのでこの海を『血沼(ちぬ)の海』という。イワレビコは迂回して熊野の神々、クズ、ツチグモ、エウカシ、タケル等々を討ち平らげて大和は畝傍の橿原に宮殿を造った。
そうして、それから2600有余年後に大日本帝国高官は、蝦夷、隼人は言うに及ばず、討ち取られた多くの列島の祖先をなかったかのように扱い、建国の日(紀元節)の行事の前に国民を触れ伏せさせたのである。なんと目出度くありがたいことだろうか。
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