写真1は朝日新聞の写真で、写真2は私が実際に撮ってきたものだが、その第一印象は「これは大きい」というものだった。
後円部の直径だけなら伝天皇陵古墳といわれる数多の前方後円墳と遜色がない。
故に、喜六、清八も見ていたに違いないとの想像は全く間違っていなかった。
そうすると、こんな大きな(日本一の)円墳の被葬者は誰?と、どうしても気になる。
そこで・・・、発掘品等から古墳時代前期(4世紀後半)と言われているから、初期のヤマト王権周辺に該当者はいないかと記紀関係の本を読み直して考えた。
ただし、答が奈良北部の有力な豪族和珥(和邇)氏周辺では面白くない。
ということで、先ずは、初期のヤマト王権は国造等の任命以前に県(あがた)と呼ばれる直轄地を持っていたが、この辺り奈良市周辺は曾布(添)御県(そふのみあがた)に当たることに注目した(奈良県立添上(そえかみ)高校の名にそれは残っている)。
さて、添御県坐神社(そふのみあがたにいますじんじゃ)というのが不思議なことに二つあり、そのどちらも私は転居前も転居後もお正月等に参っていたことがあることは以前にブログに書いたが、そのうちのひとつ(転居前)が富雄の三碓(みつがらす)の地にある添御県坐神社(写真3)である(もう一つはもっと北の歌姫の集落にある)。
で、その祭神のうちの武乳速之命(たけちばやのみこと)の真の名前は那賀須泥彦(ながすねひこ)という。
記紀によると、那賀須泥彦というと神武(じんむ)天皇のヤマト進出に抵抗した元々のヤマトの豪族で、神武の兄の五瀬命(いつせのみこと)を射殺したりしたが、義弟饒速日命(にぎはやひのみこと)に裏切られて殺されたとある。
よって、この古墳が、反神武のチャンピオン那賀須泥彦か、那賀須泥彦を殺して神武に国譲りをした饒速日命かと考えるのも楽しいが如何だろう。
次に、4世紀の歴史に登場する有名人というと忍熊(押熊・おしくま)王となる。
忍熊王の墓は佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群に近い奈良市押熊の集落にある(写真4)が、反逆者?といえどもこれはあまりに小さい。
忍熊王は麛坂(かごさか)王(兄で後に死亡)とともに仲哀(ちゅうあい)天皇と大中姫(おおなかつひめ)の子(王子)であったが、仲哀天皇は筑紫で不慮の死(殺害?)にあい、仲哀天皇の子と称する応神(おうじん)天皇を戴いた神功(じんぐう)皇后と建内宿禰(たけしのうちのすくね)がヤマトに帰郷?するのと戦った。それが忍熊王である。最後は神功側の謀略にかかって死んだ。
ということで、本来なら次の天皇であったかもしれないのに神功・建内・応神側に誅殺された忍熊王にはこの巨大な円墳が似つかわしいと想像するのはおかしいだろうか。
以上は全て、富雄丸山古墳の大きさに感心して、3箇所を巡って想像した夢物語である。
謎の4世紀は自由な想像の4世紀だと思う。笑いながら読んでもらいたい。
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