2017年12月9日土曜日

役に立たない読書

   ハウツーものではない。
 林望(はやし のぞむ)著『役に立たない読書』集英社インターナショナル新書。
 こういう書名を見ると文句なく嬉しくなって発作的に買ってしまう癖がある。

 本を数読めば教養人になれると思うのは錯覚である。
 ベストセラーはファッションでしかないから読む必要がない。
 本は断捨離しない方が良い。
 図書館では本は読めない。
 随時に読む。同時に何冊も読む。
 本棚は脳味噌の延長である。
 日本語は電子書籍に向かない。
 ・・その一つ一つに私は同意する。
 
 著者の専門分野の古典の醍醐味を多くの作品を引いて縷々説明されている辺りは、ただただ感心して読んだ。
 著者は20代の頃、慶應義塾女子高校の国語の教師だった。
 原則大学全入という特殊な環境だったので許されたのかもしれないが、教科書は一切使わず、古典作品からできるだけ長く抜き出したプリントを作り、試験はプリントの持ち込み可であったらしい。
 そんな風に教わると、古文が暗記物でなく文学そのものに思われたことだろうと想像する。生徒たちが羨ましい。

 恋愛文学が残らなかった中国に対して、特に恋物語が多く残った日本について、それは稲作文化に起因する、・・人智では如何ともしがたい自然の力(神が想起される)によって豊穣がもたらされる国に在っては、陰陽の調和、つまり男女の恋と和合は国の基本であったとの解説には少々笑ったが、なるほどそうかもしれない。

 そして、一般の書物において、欧米に比べ日本は、装丁や紙質といった「書姿」に強い意識・愛着を感じる長い長い歴史がある・・との指摘にも大いに共感した。賛成。

 著者は、世の一般にいう「読書が人格を涵養する」には首をかしげ、本など読まなくても正直に生きている人はいるし、本をいっぱい読んでいて悪い人間も多い・・という。これも納得。
 そして、読書に過大の期待をするのは間違っている。
 読書すれば何かの役に立つと思わぬこと。
 ただ、人生をできるだけ楽しく、豊かに送りたければ、自由に本を読むことだというあとがきで本は終わっている。
 実に爽やかな読後感で、ますます乱読が楽しくなってきた。

 『役に立たない読書』を読んで直接役に立ったことは少ないが、読んでみて後悔はしなかった。

 目次の次の第1章の前に徒然草第43段が載っていた。
 春の暮つ(くれつ)かた、のどやかに艶(えん)なる空に、賤(いや)しからぬ家の、奥深く、木立(こだち)もの古りて(ふりて)、庭に散り萎(しを)れたる花見過(みすぐ)しがたきを、さし入りて見れば、南面(みなみおもて)の格子(かうし)皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸(つまど)のよきほどにあきたる、御簾(みす)の破れより見れば、かたち清(きよ)げなる男の、年廿(としはたち)ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上(うへ)に文をくりひろげて見ゐたり。
   いかなる人なりけん、尋(たづ)ね聞(き)かまほし。

 念のためとりあえずの現代語訳によると。 
 晩春ののどかで風情のある美しい空、身分が低くないことを伺わせる立派な造りの家の奥深く、古びた趣きのある木立に、庭に散り萎れた花びらがあれば、これは見過ごしがたい情趣を感じる。その家の中に入っていって見ると、南面の格子の戸をすべて下ろしていて寂しげな様子なのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)は程よく開いている。御簾(すだれ)の破れから見てみると、容姿端麗で清らかな20歳頃の男性が、くつろいだ様子で過ごしていて、心が引き寄せられてしまう。その男性はのどかな風情で、机の上に文書を広げて読んでいるようだ。 
   どのような人物なのであろうか、尋ねて聞いてみたいものだ。

 ああ、そんな風に本を読みたいものだ。

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