本は8章からなっていて、西国街道、京街道、熊野街道、暗越奈良街道、東高野街道、西高野街道、竹内街道、大阪市内の諸街道 を歩いてガイドしている。
この本のトピックスは追々書くとして、今日は私が若い頃住んでいた堺市の中心部のことを書いてみる。先ずは熊野街道のことである。
熊野詣のために京から乗ってきた船を降りたのが大阪は天満橋近くの八軒家浜。あとは南の紀伊に向かって99の「王子」を辿っていく。大阪市を越えると堺市に入る。
そういう歴史などには興味がなかった子供(私)は、熊野街道イコール小栗街道イコール府道(13号線)だと漠然と理解していた。
(ちなみに、説教節や浄瑠璃の小栗判官のことや、ほんとうは府道30号線なのに堺の人はなぜ13号線と呼ぶかについては、今日は割愛。以前に書いてもいる)。
しかし現在では堺中心部の街道は特定しがたくなっているようで、例の府道や南海高野線よりも東側の田出井町(刑務所西)に境王子碑があり、私の理解していたよりも東側にあったようである。(他の説もある)
中世よりも昔(古代)は難波の宮(現大阪城の南)からまっすぐ南に向かって難波大道(なにわだいどう)が引かれていて、堺で直角に飛鳥、奈良への街道と交わっていたから、難波大道や飛鳥への交差路は旧堺の環濠都市よりは東になる。
そして考えれば堺は古く中世からの都市であったから、旅人も一本道の街道に限らず往来していたのではないだろうか。例えば、住吉を巡ったのち、今の阪堺(路面)電車の通っている堺の大道筋などの利用も想像できる。
私なら熊野詣という一大イベントのついでなら、ここは、かの有名な堺の繁栄を覗いてみたいと思っただろう。
それにしても、江戸時代の参勤交代に使われた他の街道との違い、つまり今では特定しがたいところがあるという特徴がここにはある。
その堺の大道筋は、一般に紀州街道であったが、この本ではあまり取り上げられていないのが少し寂しい。
阪堺線でいえば北は綾ノ町から南は御陵前までが大道筋で、御陵前でぐいと西斜めに折れて南下する。
〽 てんてん 手ん毬 てん 手毬・・紀州の殿様 お国入り・・ の紀州街道で、このあと海沿いを南下して泉佐野で再び熊野街道と合流する。
熊野街道は、堺市のホームページでも御陵前の少し東の山之口橋から大鳥大社へのルートが載っている。大道筋の発展?に伴って元は堺の東の方を通っていた熊野街道が堺中心部を見物できる新ルートに変わった気がする。(想像の域を超えていない=勉強不足)
このように、自分の知っている土地が出てきたり、実は勘違いしていたようなことが出てきたり、この本を眺めながら楽しんでいる。
大阪周辺の皆さんにはお勧めする一冊である。
はじめまして。『大阪の街道を歩く』の著者・小西進です。知人が、こちらのブログで拙著について言及されていると教えてくれました。拙著をお手元に置いて下さり、ありがとうございます。9下旬の発売以来、読者の方からの感想が少しづつ寄せられているところで、「眺めて楽しんでいる」とのお言葉に励まされています。「紀州街道」は主に、連載の続「大阪の街道を歩く」で取り上げたため、本書には収録していません。なお、私は出版を機に、「note」というサービスを利用して、連載や本に盛り込めなかった話題などを発信しています。よろしければご一読下さい。https://note.com/merry_seal9753/
返信削除著者の小西進さん、コメントありがとうございます。noteの方はブックマークいたしました。楽しませていただきます。
返信削除