河上麻由子著『古代日中関係史』(中公新書2021年10月再版)を読んで知的満腹感を得た。この本を購入した動機は、著者が2021年(令和3年)第33回濱田青陵賞の受賞者で、この本が主な著作の一つであったからである。 濱田青陵賞(岸和田市文化賞)とは、岸和田市のHPから採ると、【岸和田市にゆかりが深く、我が国考古学の先駆者として偉大な功績を残され多くの後進を育成された濱田耕作(号 青陵)博士没後50年にあたる1988年に、「岸和田市文化賞条例」に基づき岸和田市と朝日新聞社が創設したもの】で、考古学や古代史に興味を持つ身としては頭の隅に引っかかっていた賞である。
受賞理由としては、【河上氏はこの春、奈良女子大から大阪大に籍を移し、古代の東アジア外交、特に日中交渉史において「仏教」という視点から切り込む研究を意欲的に続けている。主に文献からのアプローチだが、その広い視野は古代日本が国際社会の一員として国造りに邁進していた時期の考古学にも大きな刺激を期待できる。
その著書『古代アジア世界の対外交渉と仏教』は、中国南北朝・隋唐時代の仏教における政治外交的な機能を史書や仏典、出土文字資料を通して解明した。南朝から盛んになった為政者の仏教崇拝に対し、諸外国の対中国政策を分析、イスラム勢力への対抗などその政治的意図を読み解く一方、隋唐における皇帝たちの仏教勢力へのアプローチを受菩薩戒の視点から探った。日本もまた、遣唐使による仏教的朝貢を介して中国との交渉に向き合いつつ、国内的にも、孝謙天皇の受戒に唐の則天武后にならった仏教による権威強化の影響をみるなど、古代アジア世界におけて広く仏教外交が展開していたことを明らかにした。
『宋書』が描く倭の五王の5世紀から、遣唐使終焉の9世紀までを通史的にとらえた一般向けの中公新書『古代日中関係史』は「古代歴史文化賞」(5県共催)の優秀作品にも選ばれた。特に6世紀の百済からの仏教伝来については日本が積極的に「導入」したとし、仏教の理解が当時の東アジア外交に欠かせない教養であるとしてその重要性を力説した。また、隋の煬帝への倭国書状における対等さを主張した『隋書』の有名な記述について、その背景に、仏教復興を推進する中国皇帝を日本側が「菩薩天子」として称え、潤滑な外交手段とした視点を提供するなど、多角的で複眼的な研究を進めている。その旺盛な研究姿勢と斬新な視点が高く評価された。】(【】は岸和田市のHPから)
さて、いろんな箇所で目から鱗の教えを受けたが、特に面白い2箇所について特記する。
その一は、607年の遣隋使の書状の書き出しの「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」に関わって、倭と隋両国の君主に同じ「天子」の称号を用いて、両国(者)の対等を主張したという説について、それは主に戦前の教科書で展開された説であり、実はこの文書は公文書である「表」の型式でなく私信であることから、残されていない公文書がこのようなものであったかどうかはわからない。(注1)
その上で、これは中華思想の「天子」ではなく、他の箇所で隋の天子を「菩薩天子」と述べていることから、仏教、具体的には金光明経のいう「天子」=仏教国の国王として使用(自負)したものだろう。ただし、当時それはインド、スリランカ、カンボジア等の仏教先進国に許されていた使用方法で、仏教後進国であった倭王の自称は不遜として煬帝は不快感を示したのだろう。(注2)
その二は、国号「日本」だが、678年に死去した百済祢軍(くだらでいぐん)(唐側についた百済人)の墓誌に百済のことを指して「日本」と用いられていて、7世紀の東アジアでは中国から見た極東を指す一般的な表現だった。先の「対等外交説」とは反対に、「中心である唐隋からして極東の一国です」と自称する国号であった。
古代史を冷静に眺めると、近代史、現代史の歪みが見えてくる。
この本の主題は私の面白がった箇所にあるのではなく、非常に緻密なその時代時代の史料の検討にあったのだが、こういう新しい発見にワクワクしながら読み進んだ。
(注1)東野治之著『聖徳太子』によると、仏典の『大智度論』では、東方、西方、南方、北方のことを「日出ずる処」「日没する処」「日行く処」「日行かざる処」と表現していて、倭を日の出の勢いの国、隋を衰えていく国と解するのは俗説とされている。
(注2)東野氏は、「やはり中華思想では全世界に一人しかいないはずの「天子」を名乗ったことが煬帝の不評を買ったのだろう」とされている。河上氏の説は前述のとおり、仏教先進国の国王が「天子」を名乗っていた事実を指摘し、そこは「仏教後進国の倭」の国王が名乗ったことが不遜とされたのだろうとしているが、同時に、この遣隋使の公文書である「表」が残っていないので、まったく別の理由だったかもしれない。
最後に、天皇中心の史観でいうと、乙巳の変で中大兄皇子(後の天智天皇)に討たれた蘇我のホープであった聖徳太子は長く評価されずにいたが、国体観念の下、日中戦争が本格化する中で、「強国と対等に渡り合ってきた、わが国の一貫せる外交方針」が強調され、聖徳太子が賛美されるようになったというように、歴史が修正されてきたことがこの本でよく解る。おもしろい。