発掘調査の結果、後期難波宮には他の宮にはない内裏(だいり)正殿の前に前殿があったということで、「これはいったい何だ」という話。
小笠原先生は「内裏正殿では、天皇が高い位置からその前の屋外の前庭に高位の官人を集めて詔を発していたが、気候がよくない場合もあり、官人たちのための屋根付きの建物だったのだろう」「唐から帰朝した知造難波宮事の藤原宇合の新しい知恵だろう」と述べておられる。
また歌舞を献上した舞台の可能性もある」と。
この内裏跡にほど近く建てられた大阪歴史博物館の復元模型では、この前殿を通常の建物として復元しているが、それだと内裏正殿の威厳が著しく阻害されるから、この復元模型には疑義があり、きっと高床も壁もない吹きっぱなしに近い建物だろうと指摘されている。
有名な博物館にしてこうだから、学問というのは鵜呑みにせず、いろんな反対意見を自分の頭の中で戦わせなければならない。また、そこが面白い。
ところで、そのように合理的な建築物が、後の長岡宮にも平安宮にも採用されなかったのは何故か? こうして勉強には終わりがない。あ~あ。
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