2022年4月10日日曜日

9条の値打 ますます

   ロシアのウクライナ侵略を見て、「核兵器の共有使用」や「敵国中枢部先制攻撃」を言い出した人々がいる。
 ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)という。
 大惨事を見た(遭遇した)住民のショックや不安につけ込んで「まどろっこしい議論や民主主義では命が守れないぞ」と脅して、情報の統制、フェイクニュース流布を通じて国民の権利制限、権力の集中・独裁を謀ろうとする戦略のことだ。

 ただし、それとは別に、その種の主張がニュースに流れることと相まって「憲法9条で日本が本当に守れるのか」という素朴な疑問が出ていることも事実だろうと私は思う。
 そこのところについて冷静に考えてみる。
 だいたいこの国は海岸線沿いにズラーッと原発を並べ、ちょっとしたミサイルで周辺の電気系統を破壊すれば国中が滅亡しかけない構造であることを直視すれば、「9条による外交で戦争が始まらない国」にすることが最大の課題ではないかという護憲論が一番の現実論であることは否定しようがない。

 そういう現実論でいえば、その種の環境が構築できるまでの間は自衛隊は存置すべきだと日本共産党は述べている。
 つまり、外交による国際環境が整わない間に「どこかのならず者」が侵略してきて、わが国に「急迫不正の主権侵害」が起こった場合は、当然に自衛隊を活用するというのが日本共産党の方針である・・と、私は2021年11月9日のブログ記事『憲法を変える必要なし』に書いている。

 若い頃の経験だが、「国家には必要最小限の自衛権はある」といった日本共産党の見解に対して、当時の野党第一党の社会党からは「それは文句なしの非武装論でない」と執拗に批判があったものだから、私なりに勉強もしたものだ。

 いま大惨事便乗型の政治家から「日本共産党はウクライナを見て自衛隊の活用を言い出した」的な攻撃が出ているが、少なくとも一介の市民である私がそれ以前にブログに書いていた事実からも、そういう非難が全くの的外れであることは明らかである。

 憲法学者の木村草太氏の著書『憲法の創造力』から言葉を摘むのを許してもらいたい。氏はこう述べている。
 🔳 憲法9条は、日本国の非武装を要求しているのではなく、日本国が非武装を選択できる世界の創造を要求しているのであると、奥平康弘先生は述べている。
 9条の意義は核兵器と空母はダメ、軍という名前もダメという量的・形式的な規制をするところではなく、実力組織の構築や武力の行使について、常に「それが自衛のために必要最小限度と言えるか」の説明を求めるところにある。
 単なる説明責任の設定ではあまり意味がないように思われる方もいるだろうが、それは違う。
 9条は、平和を維持するためのルール設定への創造力を働かせることを求め続けている。
 9条は、第二次世界大戦を直接経験した人々によって、大変な緊張感を伴い解釈され、論じられてきた。そうした解釈論や議論を、次の世代に受け継いでゆくことは、我々の世代の義務だろう。🔳

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