時代は遥かに飛び越えて、昭和の戦前のその辺り一帯は大日本帝国陸軍歩兵第8連隊の兵舎であった。
私が小さい頃などは大人たちが普通に「〽またも敗けたか8連隊。これじゃ勲章9連隊」と歌っていた。9連隊は京都、そして商都大阪の8連隊は弱いので有名だったらしい。ただしこれには反論があるらしく、商都大阪の8連隊は計算の合わない玉砕戦法などをとらなかったからという指摘もある。
司馬遼太郎の本にあったように思うのだが、中国戦線で「他の部隊は食料などを現地調達ということでかっぱらっていたが、8連隊は商売人のため金を払って購入したと自負していた」というのを読んだ記憶がある。そのようなことは従軍していた叔父から聞いたこともある。
その8連隊の兵舎が昭和40年代までその辺り一面にあり、戦後は国の役所の庁舎になっていた。そして、そういう難波宮大極殿の真上辺りに私は勤務していた。
その勤務(就職)の少し前、昭和30年代、山根徳太郎氏の献身的な発掘調査の結果、周りからは「あれは山根の宮だ」などという陰口を浴びながら発掘は進んでいた。私の高校の先生はその歴史的な意義などそっちのけで、山根博士の発掘の苦労の歴史を感動的に熱く語ってくれたものだった。
その後、NHKも国の官庁も西側の大手前などに移り、そこでも私は勤務したりした。それでも難波宮の印象が濃くならないのは史跡としての整備が不十分だからだろう。大都市故の理由はわからなくもないが、平城宮趾の場合はその広さだけをもってしても古(いにしえ)の都が浮かんでくる。
大阪府市政は、カジノなどにうつつをぬかすのでなく、文化の裾野に力を入れるべきだと私は思う。
「呉れんたい」は「くれんたい」「くれへん+たい」で「(勲章が)貰えない」という意味。
返信削除「8連隊は敗けてばかりなので勲章は貰えない」というのと、京都の9連隊も弱かったというのが掛けられている。
実際がどうであったかは判らないが、一般的には貧しい農村出身の兵隊の方が強いということはあっただろう。
戦後のことであるが、大阪の人間で「またも敗けたか・・」の俗謡をけしからんと怒っているのを私は知らない。ちょっと自慢気であったように感じている。個人の感想です。