2021年8月31日火曜日

アフガンからの連想

   アフガンは山一つ越えると、谷一つ越える と、言葉も顔つきも全く」違う民族がモザイクのように住んでいる。中国雲貴高原の少数民族も同様だ。

 日本列島人(主に縄文人)の文化のルーツを考える場合、骨格、血液型、遺伝子、言語、遺物などなどからこれまでいろんな説が唱えられてきたが、結局ピタッとした答えは見つかっていない。わかったのは、近隣の有名な民族とはあちこち相当違うということだった。

 そこでアフガンだ。(アフガン自身とは話は外れるのだが)・・・現存する大きな民族のどこかにルーツがあると考えるより、その昔のアジアは今のアフガンのように、雲貴高原のように、種々雑多な民族がいて文化があったのではないか。もちろん相互に影響はしあいながら、そのうちのアジア極東の主流派が日本列島内で大きくなり、原日本人(縄文人)になっていったのではないか。

 だいぶ以前のテレビだが、椎名誠がシベリアの少数民族の村に行った折、「どこから来たのか」「日本から来た」「うそっ!隣村から来たんだろ」「嘘じゃない。日本人だ」「またまた、隣村の人だろう」というやりとりが非常におもしろかった。

 そんなもので縄文人のルーツはシベリアの少数民族、弥生人のルーツは元江南・現雲貴高原の少数民族あたりに親戚はないだろうか。(写真はネット上で見つけた千葉大学極東少数民族地域研究部門のイテメリン族)


 この話はあまり論理的なものではなく、どちらかというとアフガンの熱に浮された「印象」のようなものである。ただ、アイヌ問題などを少し横に置いての話だが、ほぼ同じ文化の民族が一つの国家を構成しているのは世界的には「標準」ではなく「例外」に近いのでないかと考える。そこを押さえておかないと、国際問題を見る眼がオンチになるように思う。

 ニュースを見ていても、アフガニスタン人がいてアフガニスタンという国家が普通にあるように報道されているのに違和感がある。アフガニスタン民族という民族は存在しない。

 秋めいて雀蛾は一直線

2021年8月30日月曜日

歴史修正主義を軽視しない

   東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』(中公新書)の中で小宮木代良氏は『過去の出来事(事件)について、その「事実」に関しての共通認識といえるものが、その社会内で存続しうる条件は、事件後70年目あたりを境目に大きく変化するのではないか』という重要な指摘を行っている。

特に76年前、明治憲法下の帝国軍部と政府は徹底した証拠隠滅(焼却処分)を行ったから、敗戦前の第一次史料が乏しいのは当然だ、その上に当時の朝鮮の戸籍制度が不十分であったため、紙背に徹する思慮がないと朝鮮人虐殺者数が確定しないのは仕方がない。問題は、「確定的な犠牲者数がわからないからなかったことにしてしまえ」という誤りである。

前回も触れたが、日本会議系の右翼の主張は、意図的にこの論法で歴史を修正していることである。小池都知事の態度はこういう確信的な犯罪的行為と言わざるを得ない。

先の山崎雅弘氏はこうも指摘している。『歴史家の中には、過去の歴史を恣意的に歪曲する言説は正当な歴史研究の裏付けを欠いているために「まともに論じるに値しない」あるいは「相手にすると学者としての沽券に係わる」と見なし、距離を置いて傍観する人もいるようです。 けれども、専門家が傍観すれば、一般の人々は「専門家が批判も否定もしないということは一定の信憑性がある事実なのか」と思い、結果としてそれを信じる人の数が徐々に増加していくことになります』 

歴史修正主義者たちは系統的に策動している。その一端を担う小池都知事の不当で非道な行いを看過していてよいだろうか。

長くなるので短く付記するにとどめるが、虐殺されたのは朝鮮人、中国人だけではなかった。9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長)と、居合わせた労働者9名が相次ぎ亀戸署に逮捕留置され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺された。いわゆる「亀戸事件」。

9日ごろには、農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげた。堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫ったが、刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした。獄外にいた山川均も追われるが、友人宅を転々と逃げ助かり、士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放された。そして16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きている。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、けっして忘れてはならない教訓だ。(2007年9月1日赤旗記事より要約)

今日の健康川柳

夜長しトイレいくたび時計みる

2021年8月29日日曜日

折口信夫に学ぶ

   関東大震災時の朝鮮人虐殺では是非とも読んでもらいたい本がある。新潮選書・上野誠著『魂の古代学―問い続ける折口信夫』の第3章である。図書館ででも読んでもらいたい。

折口 信夫(おりくち しのぶ、明治20年―昭和28年)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。 

さて、敗戦時、GHQによって存続が危ぶまれる大学が2つあった。伊勢の神宮皇学館大学と国学院大学だ。ともに国家神道の教学を担っていた。その折、折口は火中の栗を拾い国学院大学の神道教学の責任者になったのである。私は保守の人士がこの大先輩の労苦を思わないのが不思議でならない。

沖縄本島、先島、台湾の調査旅行から帰って来た折口は94日に横浜に上陸し、東京の自宅に戻る途中、この虐殺に遭遇し目撃し、折口自身も警察、軍隊、自警団、の「検問」を何度も受けた。君が代を歌わせたり、教育勅語を暗誦させたり、「イチエンゴジュッセン(150銭)」と言わせたり。 

そして、可愛い(顔よき)子供すらも撲殺する側の殺人者になっていたことに彼はショックを受けた。その時のことを追懐して詠んだ歌が、 国びとの 心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、顔よき子らも、頼まずなりぬ であり、『砂けぶり』という詩であった。『砂けぶり』は数次にわたって改作されているが、1947年の『砂けぶり二』では、おん身らは、誰を殺したと思ふ 陛下のみ名においてー。 おそろしい呪文だ。陛下万歳 ばあんざあい と告発、抗議したのだった。明治憲法下の日本人の自己批判でもあった。 

著者の上野誠は、「殺害された朝鮮人の数は、政府発表では231名となっているが、今日、多くの研究者たちは数千人単位で推定している。近時は中国人の殺害もあったことが明らかになっている」と述べている。とまれ、その数字の差異にどれほどの意味があろうか。 

己を革新というか保守というかはどうでもよい。その前に歴史に真面目に向き合うことが人として大切だ。そういう意味で、私は小池都知事を軽蔑する。

糞虫の図鑑眺めて静養す


2021年8月28日土曜日

小池知事の悪意

   昨日の記事の最後に私は、『小池都知事の言い分は、 1「関東大震災の全ての犠牲者に哀悼の意を示しており、個別の追悼文は控える」 2「朝鮮人虐殺は歴史家が紐解くべきもの」 3「犠牲者数の数字に異論がある」というもの』と書いたが、私の指摘が当たっていれば、その論はただ「至らない、勘違い」などではなく、高度に悪質なものだと私は考える。

1に、天災と言ってよい震災被害者と、人災と言ってよい流言飛語による虐殺は峻別して記録・記憶しなければ科学としての歴史の意味がない。そこに追悼碑の意味もある。小池都知事の言葉の誤魔化しは、学術会議事件の際の上代文学会常任理事会声明のとおり、『前政権以来、この国の指導者たちの日本語破壊が目に余ります。日本語には豊かなコミュニケーションを担う力が十分備わっているのに、見せかけの形式に空疎な内容を盛り込んだ言説が今後も横行するなら、日本語そのものの力が低下してしまいます。日本語の無力化・形骸化を深く憂慮します。頼むから日本語をこれ以上痛めつけないでいただきたい』の指摘と同質と言ってよい。

2に、(未来の)歴史家が紐解くものとの主張は、無責任・無定見の極みだが、実はそんなレベルのことではなく、右翼の『歴史戦、思想戦』の戦略に則った発言(戦略)であるところが危険である。

集英社新書『歴史戦と思想戦―歴史問題の読み解き方』で著者の山崎雅弘氏は、書店に嫌中国・嫌韓国の本が溢れている状況を踏まえてこう述べている。

 ■ 過去の歴史について、日本に不都合なことを「なかった」と言い、日本は何も悪くないと語る本は、読んでいる間は日本人にとって心地いいものです。けれども、そんな安心感に身を委ねてしまうと、それと引き換えに大事なものを見失ってしまうのではないか。日本は何も悪くないと誰かに言われれば、一人の日本人として肩の荷が下りたような気になるが、本当にその結論でいいのだろうか……。■

 重ねて言うが、「歴史家が紐解くもの論」はこれも論理のすり替えで問題を誤魔化す論である。

 第3に、「犠牲者数の数字に異論」というのは、これも横車の典型で、例えばヤクザが行政の窓口に横車を押してくる場合の常套手段で、枝葉末節の泥沼に引き入れてものの本質を誤魔化すやり方だ。例えば百田尚樹の『日本国紀』は南京虐殺の記述で、まず「30万人」という数字に疑義を差し挟み、その数字の信憑性を述べた後、結論で『「客観的に見れば南京大虐殺はなかった」と考えるのがきわめて自然である』と論点をすり替えている。ちなみに産経新聞は、蒋介石秘録を掲載し、その中では南京虐殺の犠牲者数について「30万人とも40万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである」と記している。(1976623日、山崎雅弘著書)

 だいたいが報道が統制されていた戦前の記録は不十分で、敗戦時のように都合の悪い史料は焼却・隠蔽してきたのであるから、「数字に異論」は為にする印象戦術である。

 以上、小池都知事の主張は、単なる無責任というレベルでなく、非常に悪質なものだと言えよう。明日に続く。

 閉じぬ眼が片方の眼までを狂わせる

2021年8月27日金曜日

ムーミンは泣いている

   人気キャラクター『ムーミン』とコラボ企画をしている化粧品会社DHCの吉田会長は、同社のHP上で在日コリアンを差別・嫌悪・卑下する文章を度々掲載した。

YAHOOニュースから引用すると、北九州市立大の中村英樹教授(憲法学)は朝日新聞のインタビューで「吉田会長の文章はヘイトスピーチ」だとし、「社会的に知名度の高い企業のトップが差別を繰り返すのは非常に問題」だと指摘した。毎日新聞も記者コラムを通じて「欧米など海外から見れば、有名企業のトップがそのような声明を流しても特に問題になっていない日本社会の感覚は信じがたいだろう」とし、ヘイトスピーチをストップさせる法整備が必要だと主張した。(写真は朝日新聞8月25日)

そんな中824日、『ムーミン』の著作権を管理するフィンランドの企業は「わが社はいかなる差別も容認しない」として、DHCとのコラボ企画を中止すると発表した。 

ところで、歴史を歪めヘイトスピーチを実質的に応援する発言がHDC会長以上に影響力のある人物から発せられていることを見過ごしていて良いのだろうか。

1923年(大正12年)91日、関東大震災が発生した。大震災自体は天災だろうが、その後、政府の中央防災会議の報告書でも『震災後に「朝鮮人が略奪や放火をした」などの流言が広まり、各地の「自警団」などが朝鮮人らを殺害する事件が多発した。1千人~数千人が殺されたと推計し、「虐殺という表現が妥当する例が多かった。」』と記している。 

1973年に自民党から共産党まで全会派が賛同して、東京都墨田区横網公園に追悼碑が建立され、毎年追悼式典が開かれ、歴代知事も追悼文を送ってきたところ、小池東京都知事は就任2年目以降その追悼文を取りやめ、近年に至っては、同公園近くでヘイトスピーチを振りまく団体と実行委員委員会をあえて同列視し、公園使用許可に不当な制限を持ち出している。

事実、小池知事の態度変更以降、「自虐、反日」などと主張して公然と式典を妨害するヘイトクライムが発生している。 

小池都知事の言い分は、「関東大震災の全ての犠牲者に哀悼の意を示しており、個別の追悼文は控える」「朝鮮人虐殺は歴史家が紐解くべきもの」「犠牲者数の数字に異論がある」というもの。ほんとうにそんな主張が成り立つのだろうか。明日に続く。

2021年8月26日木曜日

秋の気配 2

   「真夏日だ」と言われてもどことなく秋の気配が深まってきた。これで蚊が引退してくれたならいうことないのだが、反対に、寒くならないうちに世代交代を!とばかりに攻めてくる。

 写真の2はセスジスズメ(背筋雀)でスズメガ(雀蛾)の一種で、オオスカシバやホシホウジャクの仲間である。オオスカシバやホシホウジャク同様、直線的にすばしこく飛び、蛾らしくないのがいい。ホバリングをしながら花の蜜を吸う。

   近い仲間にエビガラスズメがいて、その幼虫・大きな青虫はアジアの一部では食用にされているらしい。食糧危機の対応食としての研究もされているようで、気候変動次第では食卓に海や川の海老の代わりにエビガラスズメが並ぶ日が来るかもしれない。今から慣れておくとよいかも。
 
 FMさん、お見舞いの手紙ありがとうございました。

 食べこぼす孫と競争する夕餉

 動画はツクツクホウシの声だけです。



 

2021年8月25日水曜日

精霊流し

   放送用語に一家言のあるABCラジオの浦川泰幸アナが言っていたと言って「精霊流し」を「しょうろうながし」と読むのは間違いで、正しくは「「しょうりょう」か「しょうれい」らしいと妻が言った。その誤読はグレープ(さだまさし)の「精霊流し」という題名と歌詞に由来するという。さだまさしは「しょうろうながし」と歌っているらしい。

 まあ普通には、愛用している三省堂『年中行事事典』は「しょうりょうながし」だし、広辞苑や新潮日本語漢字辞典も「しょうりょう」となっている。特段に文句はない。

 しかし、京都や他の少なくない地方では「おしょらいさん」とか「おしょうらい」とも言っているから、こういう古い伝統行事はその地で言い慣わされてきた言葉に誤りや誤読をいうのはおかしいと思う。長崎にテーマをとった「精霊流し」は「しょうろうながし」でよいではないか。

 さて、昭和30年代ぐらいまでは堺の旧市街でもお盆の飾り物や経木(卒塔婆?)を市(いち)小学校近くのお寺に持って行って川に流してもらっていた。堺の旧市は海沿いだからそれはすぐに海に出て、それ以降大浜の海水浴場には残骸?が流れ着いた。それは、夏休みも終わり、海遊びをあきらめて残っている宿題に係れという子どもたちへのシグナルでもあった。

 もちろん今ではこういうものを川から海へは流していないだろう。だが、近頃は瀬戸内海の水が澄みすぎて魚介にダメージを与えているというニュースがあったから、だからといっていろんなものを流していいとは言わないが、そういう思い出が懐かしく感じる歳になった。

 TOさん、お見舞いありがとうございます。股関節を痛められているとか、ご自愛ください。

 ボケ防止精霊流しの回想法

2021年8月24日火曜日

陰性だった

   実はここ数日、私の顔面神経麻痺どころではなかった。

 孫の凜ちゃんの熱、咳、鼻水が止まらず、近くの耳鼻科や小児科でも改善せず、ついに一番基本の大手術もした大学病院が家族全員を調べるということになっていた。

 こういう場合、いくら祖父母が心配してもどうにもならないのだが、結果の通知までは全く気分が晴れない。

 お陰様で凜ちゃんファミリーは陰性と通知があったので一安心。これも大学病院に成長を追いかけてもらっているせいで叶ったことだ。しかし体力が落ちているので1週間は注意と言われている。

 世間のコロナ騒動は決して他人事ではない。自宅療養という虚言(実際は入院拒否)で治療も受けられずに亡くなっている方もいる。ネットの情報ではこの大変な最近1週間、松井大阪市長は「公務予定なし」で出勤もしていない。

 パラリンピックの行事は多人数で実施され、テレビ映りのために小学生が動員されている。許せない。許せない。病弱の児の家族は眠れない。

秋の気配

   今週後半には暑さがぶり返してくると予報されているが、夜にはいっぺんにツヅレサセコオロギの声が大きくなり秋の顔が見えてきた感じがする。なるほど23日は処暑である。ちなみに22日は旧暦7月の十五夜で久しぶりに月を見た感じがする。

 宿根草なので全く放ったらかしだったハナトラノオも咲き始め、猛暑のうちは飛び交う昆虫も少なかったのだが、写真のとおり蜂(花虻?)も元気が出てきたみたいだ。いささか体調不良の身にはそんな程度しか季節の変化も判らない。

 さて、特発性末梢神経性顔面神経麻痺だが、友人からの情報やネット情報では「寒風にプッシュされた」という情報も多い。私の場合も、猛暑への機械的反動で、超薄着の上に冷房と扇風機をガンガンかけて震えあがるのを楽しんでいた気がある。反面教師にしてもらいたい。

 KBさん、OAさん、お見舞いありがとうございます。

 行く夏や顔面麻痺の置き土産

2021年8月23日月曜日

フィナーレ

   ほんとうなら夏祭りもあった、盆踊りもあった、そして最終盤には地蔵盆もあったというのが夏休みの定番だが、可哀相にそれらすべて何もないまま今週には2学期が繰り上げて始まるという孫の夏ちゃんのために、夏休みのフィナーレを飾る?花火大会をしに夏ちゃんファミリーが来てくれた。

 街中を「ここはカブールかい」というほど煙に巻いての花火大会には、夏ちゃんのためといいながら、私自身病気も忘れて気分が盛り上がった。

 年寄りの2年間というのも代えがたい貴重なものだが、子どもの2年間という質も大きい。コロナ対策無策というか、やることなすこと正反対の安倍・菅政権の責任は重い。ひとことで言って「人災」だと思う。

 夏ちゃんに「夏休みのフィナーレはどう過ごすの」と聞くと、「ぶらぶらする」というのが答だった。

 HKさん、KTさん、SMさん、皆さんお見舞いありがとうございます。

 お見舞いはお互いさまが合言葉

2021年8月22日日曜日

アフガンの行方は

   アフガニスタンのガニ政権が崩壊し、首都カブールはタリバーンが制圧した。日本のテレビは盗人が鞭打ち刑を公開処刑されているのを映して「近代以前の中世に戻った」と報じたが、問答無用で爆撃をして国連の発表でも10万人強の民間人を殺した米欧に「石を打つだけの」正義はあるのか。

 元来アフガンの8割は農民、1割が遊牧民だったところ、地球温暖化によってヒンズークッシュ山脈の雪が減少し、世紀の大旱魃で人々は飢えていた。日本を含む米欧はこれに対して救援を行わず、オサマビンラディンをかくまっているとして、反対に経済制裁・食糧制裁と空爆を行った。その地で力を尽くして倒れたのが中村哲医師とペシャワール会の人々だった。

 彼の地は、比較的よく似た文化で歴史を重ねてきた日本列島人には全く想像が及ばない多民族、多文化の地である。日本の戦国時代のイメージにも似ているところがある。女性の地位の問題など課題は大きいが、戦争によってはテロさえも克服はできないことを証明した。

 アフガンの諸民族は大英帝国にもソ連・ロシアにも屈しなかったとりわけて誇り高い民族だ。日本を含む米欧は「人権」や「民主主義」という謳い文句で新政権樹立に影響力を与えたいようだが、リスペクトのない「ご指導」が上手くいくはずがない。今こそ「平和外交」の出番である。日本の政権交代で新しい国際秩序を立ててもらいたいものだ。

 中村哲医師の訃報を受けて私は次のようにブログ記事を重ねた。それでもアフガンは懐が深く問題は深い。よって私の理解も非常に薄っぺらい。それでもよかったら私と一緒にもう一度過去のブログを読み返してみてほしい。テレビニュースを見ながら考え込むことも多い。(ブログの日時とタイトルは次のとおり)(表示できない場合はお尋ねください)

2021年2月18日 心はアフガンへ

2021年2月20日 スレイマン山脈

2021年2月21日 多様な世界

2021年2月22日 ダラエ・ヌール渓谷の夜

2021年2月23日 丸腰の安全保障

2021年2月24日 ふりだしに戻る

 

 なお、TYさん、KSさん、お見舞いありがとうございます。

 被介護の予行演習真っ盛り

 隻眼と言うか眼は開いたまま

2021年8月21日土曜日

糞虫ワールド

 諦観などと落ち込んでばかりはいられないので、少しは明るいニュース!

   フェイスブックのカバー写真をルリセンチコガネにしている私だから、朝日新聞にこの本が発売されたという記事を見つけたときには直ぐに購入した。『ならまち糞虫館館長中村圭一著:糞虫図鑑』(創元社)である。

 パラパラとめくったが、すでに持っている『ふんコロ昆虫記』(トンボ出版)と遜色なく楽しい本になっている感じだ。なぜ「感じ」かというと右目を含む顔面麻痺で読書が非常に辛いからである。まあ、じっくりと楽しむことにする。

   併行して『人新世の資本論』も読んでいる。読んでいるといっても、これも目のせいで全く進まないのだが、「資本主義が世界経済以前に地球を破壊する」という数々の実証と糞中の「栄枯盛衰」も頭の中で重なってくる。

 奈良公園の糞虫も圧倒的には小型なので、ド素人の私などは専ら大型のルリセンチコガネ(右は今年撮影した写真)を愛している。
 さっきまで鹿の糞に乗っかっていたのも忘れて掌に乗せて愛でている。

 YoHさん、SSさん、YaHさん、HMさん、お気遣いありがとうございます。

 【本日の川柳もどき】

 動かない口に手を添え肉を喰う

 ジンギスカン喰いウイルスとバトル

2021年8月20日金曜日

やや諦観

   かかりつけ医にとりあえず顔面麻痺の報告をしたところ、「僕ならステロイドは出さないなあ」「初期に徹底して点滴をするなあ」と感想があった。私としては別にセカンドオピニオンのつもりでもなかったのだが、こんな感想を聞くと(今の療養方針でいいのかと)心はざわつく。

 現在の症状で困っていることは、顔面右半分の眉毛、瞼、鼻、唇と口、耳の奥の麻痺で、耳の奥から首、肩にかけて鈍痛があり、咀嚼が思い通りにならず飲み物はこぼれ、目が閉じないので乾燥して痛み、顔や頭を洗うと目に洗剤や水が染む。薬の副作用で寝付かれず、睡眠も浅く、結果として疲労感もある状態だ。エエカッコを言うと文字の読めないのが一番辛い。本もテレビもパソコンもだ。

 原因はまだ特定できないと言われているが、身体の抵抗力の低下によってヘルペスウイルスが活性化した可能性もあり、とりあえず17日に予定していたイクジイは、特異に病弱の孫にヘルペスウイルスをうつしてはいけないので中止にした。

 顔面に帯状疱疹の酷い症状は今のところ出ていないが、ドクターには出る可能性を宣告されている。

 孫の夏ちゃんには福笑いみたいだと言われた。黒田知事みたいと言ってほしいが孫には歴史のかなたの話だろう。祖父ちゃんと祖母ちゃんは黒田知事誕生に走り回っていたのだぞ。

 以上、簡単に現状報告。

 HTさん、お見舞いありがとう。私より深刻な闘病中なのに痛み入ります。

 KHさん、ITさん、MSさん、HSさん、TSさん、HBでのお見舞いありがとうございます。

  今日の健康川柳

 うつなのは病気ではなく雨のせい

 そのうちに晴れる日もある保証する

 マスクしてサングラスして良い社会

2021年8月19日木曜日

整形ほゞ諦める

   5月25日の『一寸先は闇』に書いた右手薬指・小指の骨折・挫滅創だが、小指はまだ腫れている上に縫合した皮膚が拘縮して指が中途半端に曲がったままだ。それを伸ばす手術を検討中だったがだんだん邪魔くさくなってきた。医師は手術するなら腱が拘縮して関節そのものが固まる前だというのだが、その気になったら再度相談ということで治療は中止にした。 

 考えると、かかりつけ医(内科その他)、脳神経内科、整形外科、泌尿器科、歯科と、要するに面倒くさくなってきた。これしきの障害は何だと執着する気がなくなった。それよりも今は脳神経内科優先優先。

 今日の健康川柳

 受診日のスタンプ花咲くカレンダー

2021年8月18日水曜日

待合室にて

   昨日、病院の”待たされ時間”の間に、読みにくい目だったが、途中まで読んでいた、【100分de名著’カ-ル・マルクス’『資本論』】(斎藤幸平)を読み終えた。期待以上によかった。NHKテキスト で524円+税だから、騙されたと思って購入をお勧めする。ほんとうにお勧めする。

 資本論は高校生のときに購入して読み始めたが「桐壺源氏」で終わっている。このテキストで最新版に挑戦したくなった。そういう気持ちにさせるほど刺激的だった。


 さて、現状報告と今日の健康川柳

 鏡には万物流転や福笑い

2021年8月17日火曜日

またしても休養宣言

   ヒロシマ、ナガサキ、コロナ、戦争の加害責任などに憤っているうちに顔面右半分が麻痺してしまった。
 右目は閉じられないし飲み物は口からこぼれる。いったい政治が悪いからか齢のせいか。
 取り急ぎ脳出血か脳梗塞を疑って病院に行くと即MRI行となった。
 ・・・ご同輩の皆さん、憤死されぬようご自愛ください。

 前回の整形外科と違ってさすがにMRI室にカメラ(スマホ)は持ち込めなかった。残念。
 結果、脳外科的原因はクリアしたが、ほんとうの原因は不明で、想定される原因に対する薬を飲み続けることになった。
 視力が相当混乱していて読んだり書いたりが辛い。そんなもので、しばらくブログの更新はままならない。   

 で、こんな時こそ『健康川柳』

 MRIもビートと思って唄うたう

 判らぬを特発性と医師は言い

 もうあかんと言いつつ次の策を練る

2021年8月16日月曜日

8月に思う

   政府は沖縄本島南部の土をもって辺野古の埋め立てを行うと決定した。南部は「南部戦跡」の地で今でも膨大な遺骨が眠っており、そういう遺骨を埋め立てに使うなどもってのほかと沖縄県議会は全会一致で反対決議をあげ、同様の決議は全国の地方自治体に広がっている。

 遺骨収集活動は現在でも根気強く行われているが、収集活動を進めている人々に聞くと、沖縄県人の遺骨は小さな岩のくぼみや草原に多いという。つまり、大きなガマは軍が接収して沖縄県民はガマから追い出されたのだという。沖縄ですらこうであるから、日本軍が朝鮮で中国で東南アジアでどれだけ非道なふるまいをしたかは想像がつく。昨日の「終戦記念日」のニュースを見ていても、日本人の被害には言及しているものの加害の反省が少ないのが気になる。

 例えばシンガポールでは、憲兵の戦友会「全国憲友会」が発行した『日本憲兵正史』に「シンガポール華僑粛清事件」と項を立て、「辻正信第25軍作戦主任参謀がシンガポールの人口を半分にするのだと発言して憲兵を驚かせた」「この事件は大東亜戦争史上一大汚点となった」と書かれている。杉田一次参謀は「5万人殺すことになっていた。全部殺すことは不可能とわかったがおよそ半分は処置した。そのときにやめるよう命令が出された」と後に証言している。

 戦後親日家として有名であったリー・クアンユー元首相は回顧録の中で、「日本人は英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」と記述している。

 重ねて言うが、8月ぐらいは先の大戦での被害の諸々だけでなく、日本の行なった加害について十分勉強し考える必要があると思う。

2021年8月15日日曜日

大東亜戦争の真相

 『あゝ野麦峠』は山本茂実氏が数百人の元女工らから聴き取りをして成ったノンフィクションだが、著者は多くの元女工らが著者の意に反して朗らかだったことに驚いていた。種明かしは、体の弱い多くの元女工はすでに死んでいて、聞き取れた人々は丈夫で生き延びた人々であったからだ。現代風にいえば、少し異なるが「勝ち組」が多かった。だから、大切な観点は、そういう声が多数であったとしても当時の製糸工場が天国であったわけでないことが大切で、76年前の太平洋戦争の実態についても、いわゆる「歴史修正主義者」が跋扈しているが、あまり表面には出ていない真実の声に耳を傾けることが重要だと思う。

   今日は8月15日。昨日から多くの書籍を書架から引っ張り出して読み返した。戦争を選択した日本指導者たちの歴史、同盟したドイツ軍と比べても特異な日本軍の作戦と規律等の体制、従軍慰安婦の数々の史料、・・・いろんな文字を読んだが結局一番感じ入ったのは「しんぶん赤旗編『元日本兵が語る「大東亜戦争」の真相』という、証言集だった。

 誰もが実名で証言されていて、初版が2006年と15年前であるから、きわめて貴重な証言集である。
 今月初めにヒロシマの被爆者である先輩のフラッシュバックの怖ろしさをこのブログに書いたが、証言者の殺害や拷問の加害の悪夢はそれと同質とも思える心の葛藤があったことだろう。

 南京大虐殺、従軍慰安婦、七三一部隊の生体実験、刺突訓練、三光政策、などなどなど。
 戦争は人間性を脱却?して初めて行える。その途中からは「殺されているのはどっちもどっちだからと女性でも子供でも殺(や)る。それが(そういう心理状態が)当たり前だったと多くが語った。

 圧倒的多数の兵士は語らないまま逝ってしまっている。証言者は、「あなたの行なった悪行を語ってくれ」という怖ろしいほど残酷な申し入れに応えたのであった。
 結局私はその証言の重さに心が塞いで何もここに書けない。
 76年間戦争のない時代を私たちは生きてきた。しかし、ウルトラ右翼政党と化した自民党や維新の策動によってそれは非常に危うくなっている。
 8月15日。歴史の修正を許さない。憲法改悪を許さない。そんなことを噛み締める日にしたい。

2021年8月14日土曜日

8月15日に 特高と國防婦人会

 明日は8月15日。   わが家では今の朝ドラは見ずに、古い朝ドラの再放送『あぐり』を見ている。吉行淳之介、吉行和子、吉行理恵の母で傑物として有名であった美容師吉行あぐりの伝記がベースだから、時代の多くは戦争中ということになる。(8月14日再放送時の場面は昭和20年春)

 夫の吉行エイスケはダダイズムの作家でありプロレタリア文学には批判的であったが、親密な作家仲間は次々に特高警察の弾圧を受けたり、それゆえの逃亡生活に入っていった。もちろん、エイスケ・あぐりの周辺にも特高の目が光り、不当な捜査もされていた。友人知人も次々に徴兵、戦死、子を宿した戦争未亡人等々になっていった。エイスケ自身は戦争とは直接関係のない心臓麻痺で急逝している。

 あぐり自身は美容師の最先端にいたから、「パーマは敵だ」と攻撃され、パーマネントの機器は強制的に供出され、果ては建物疎開を命令され、結果的には空襲で美容室は灰燼に帰した。朝ドラでこれらの場面で「大活躍した」のは国防婦人会の町内のおばさんだった。

 ファシズムの分析というとどうしても先の特高警察の弾圧がクローズアップされるが、日々の庶民の暮らしと思想を圧迫していたのは国防婦人会などの近所の普通の人々だった。(妹尾河童著『少年H』でもそういう相互監視の結果、親は酷い拷問や嫌がらせを受けている)国防婦人会のその負のパワーは、軍人の妻としての意識、戦争未亡人の復讐心、さらには子が戦死した母親の「不公平感」などもあったが、街中に成人男子がいなくなり、必然的に守備範囲が拡がった女性たちの生きがい、充実感もあっただろう。なにしろ選挙権もなく、一人前の人間扱いされていなかった女性が「お国のために」働き場を与えられたのであるから。

 社会というものは一筋縄ではいかないものだ。現代でいえば、決して恵まれていない庶民が生活保護や福祉を受けている人々を攻撃するようなものである。コロナ下で自粛生活を守ってきた庶民が「強力な緊急事態法=改憲」を求めるようなものである。

 8月15日、いわゆる終戦記念日、単純に一部軍人が悪かった的な話で「いいね!」とするのでなく、ファシズムに向かう小さな囁きを一つひとつ告発していかないと、知らないうちに幽霊は成長する。今日一日ぐらい「考えない罪」「行動しない罪」をあれこれ考え抜くのも悪くない。

 15年戦争のアジアの人々と日本の人々に黙祷。

人のふり見て我がふり笑え

   「お父さんのこと書かれてるで」と妻が言った。

 古希越えていつまで歌う高三生 (芳養虎)という川柳のこと。私が「学園広場」の替え歌をOB会の歌にしたことを皮肉られた。

 毎週土曜日朝5時からのMBSラジオ「しあわせの五七五」から選抜された川柳が本になって3冊目。取り寄せをしてもらっていた本屋から連絡を受け、直ぐに読んだ。朝日や赤旗の川柳はどちらかというと時事川柳だが、このMBS&毎日新聞の川柳は「健康川柳」と銘打っている。

 私の感覚では、時事川柳が上で健康(日常)川柳が下というわけではない。この本の作者でありラジオの「師範」でもある毎日新聞の近藤勝重氏は次のように述べられている。

 ■ ところで、僕が健康川柳に求めてきたのは俳味です。俳味の「俳」に俳句を思い浮かべる方がいるかもしれませんが、室町時代から江戸時代にかけて盛んになった俳諧の「俳」です。手元の辞典には俳味は「俳諧のもっている情趣、軽妙、洒脱な味わい、俳諧味」とあります。また「俳」に「おもしろい。こっけい。おどけ」などの語釈をつけている辞典もあり、それらは川柳の三要素の「うがち。おかしみ。軽み」とどこか重なります。 俳諧は明治以降、俳句と川柳に分かれ、「俳」をより重んじているのは俳句よりも川柳というのも何だか妙な感じですが、川柳の俳味は「生き方再発見」につながります。■

 それはさておき、先日、孫の療育園のバスの運転手の爺さんに「おじいさん」と呼ばれてびっくりしたが、私は知らない間に立派な「おじいさん」になっていた。さて、「お爺ちゃん」呼ばれてるうちに慣れてきた(芝原茂)になるのだろうか。

 鏡なぜ写さぬオレの気の若さ(豊中のタカシ)に大共鳴だが、実際の日常では、 生きているだけでええのに悩んでる(板東純)方がぴったりかも。

 よし、本年後半の挑戦(課題)は決まった。

2021年8月13日金曜日

迎え火

   これは先輩のスノウさんから教えていただいたことだが、・・・子貢(しこう)、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去(さ)らんと欲(ほっす)。子(し)曰(いわく)、賜(し)や、爾(なんじ)は其(そ)の羊(ひつじ)を愛(お)しむ、我(われ)は其(そ)の礼(れい)を愛(お)しむ。(論語八佾)・・・と。

 そも迎え火、送り火は親鸞の教えにはないようだが、そんな行事を通じてしかお盆さえ忘れてしまう凡夫の身、今年も楽しく迎え火を焚いた。孫の凜ちゃんは「焚火」「焼き芋」と思ったらしいが、そんな発言を大笑いできるお盆は幸せなお盆である(新盆の読者の方にはこんなノーテンキな記事を書いて申し訳ない)。

 ほとんどの年中行事は古臭く合理的ではない。だからといってそれらを捨て去ってしまうとどうも人生が味気ない。現実的、合理的な話題しか話せないのは面白くない。どのように取捨選択して日々を楽しむかだろう。

 迎え火を焚いた。

少数民族の歌文化

   この本の装丁は酷すぎる。中公新書・遠藤耕太郎著『万葉集の起源』だが、サブのタイトル・キャッチコピーが「東アジアに息づく抒情の系譜」「ひとを恋しいと歌う文化」「日本人の感性はどう育まれてきたのか」であるから、どうしても購入してしまうではないか。

 著者のすごいところは、資料の比較など(だけ)で執筆したのでなく、雲南の少数民族の村に長期間居住しながら学んだ実践に基づいて論を立てているところだ。詳細部分は門外漢の私には理解できないところもあるが、体で掴んだ論ほど強いものはない。

 彼の地の歌垣を紹介しながら、文字をもつ以前の東アジアの民族の恋歌や挽歌のストーリーや死生観にまで論は及んでいる。内容は紹介し切れないから興味があれば自身で学んでもらいたい。

 全くの寄り道の部分で思うところもあった。・・・古代の日本には人を恋しいと歌う文化があった・・・そういえば天皇も貴族も人を恋うる歌を歌っている。それこそが日本の文化だ伝統だとすると、西南戦争後の明治新政府が大元帥たる天皇に恋歌を詠むことを禁じ、その流れは大正、昭和天皇に引き継がれた。丸谷才一はそれを「日本文学の伝統を断ち切った明治政府の最大の文学的弾圧であった」と断じている。

 となると、明治時代を賛美する日本会議や果ては維新の会の人々は、最も日本の伝統を軽んじる者たちである。

 遅まきながら日々の生活に感動を見つけ、その感動を五七調の歌に詠う真似事をしてみたい。

2021年8月12日木曜日

キネマの神様

   11日に予定していた計画(行事)が跳んだので、映画『キネマの神様』を観てきた。

 孫に「ギャンブル依存症とアルコール中毒のただの爺さんで死んでいくのか」と尋ねられる主人公は他人ごととは思えなかった。

 絶望の中で終わるわけでもなく、ハッピーエンドとまでも言えない「現代」は、非常にリアリティーがあった。そして約50年前の「過去」の活動屋たちの元気も生意気もどこかで自分の「過去」と共鳴した。世界は違うが同じような空気を吸いながら同じような時代を生きていたように思う。

 コミックが原作の多くの楽しい映画で育ってきた若者にはこの共鳴感は無理だろうなあ。このダメ爺さんに共鳴できるにはそれなりの人生経験がいる。

 私には見事な現代劇に見えた。

2021年8月11日水曜日

温帯低気圧 畏るべし

   台風と熱帯低気圧の違いが風速の差だけであることは知っていたが、熱帯低気圧と温帯低気圧の違いは存在している緯度の違いあたりかという程度にしか理解していなかった。

 そして、漠然と台風に比べて温帯低気圧は危険性が格段に低いというイメージでいたところが、台風9号崩れの温帯低気圧はかなり離れたわが家周辺でも長期間強風が吹き、庭のハナモモのけっこう太い枝が折れ、少し小ぶりだが街路樹の銀杏の木は幹が折れてしまった。温帯低気圧畏るべし! 天気予報ではこんな台風並みの温帯低気圧には特別の名前を付けてほしいものである。

 そんな予想外の強風に遭ったので少し調べたところ、台風や熱帯低気圧のエネルギー源は水蒸気が水滴に変わる際の潜熱であり、片や温帯低気圧のエネルギー源は暖かい空気と冷たい空気が上下に入れ替わる運動エネルギーだということが解った。

 熱帯低気圧と温帯低気圧でそんな大きな違いがあるのかと感心したので、孫の小学生の夏ちゃんに解説したが、説明が下手で全く興味を引き出せなかった。夏ちゃんにはそっぽを向かれたが、この歳になって初めて熱帯低気圧と温帯低気圧の違いを知って、恥ずかしながら自分自身で知的満足感を感じた。

2021年8月10日火曜日

蝉しぐれ

 8月7日朝5時にわが家の庭で蜩(ヒグラシ)が鳴いた。(これまでは少し遠いところで鳴いているのが聞こえていたが)これは記録のために書いておく。

 ヒグラシは夜明け前と夕刻に鳴く。夕立でいっぺんに暗くなった時も夕刻と間違えて泣くことがある。

 ヒグラシの声はイメージとしては真夏のそれではなく、残暑から初秋の気分がする。できすぎた話だが8月7日は立秋であった。

 クマゼミの方だが、わが家では5時50分になると換気のための窓を閉めることにしている。「もう50分や」というように。
 ずばり、わが家の庭では天候にあまり関係なく5時50分になるとクマゼミが一斉に鳴きだす。テレビの音も聞こえない。周辺に聞き耳を立てると少し離れた木立ごとに鳴き始める時間は少しずつずれている。
 よーいドンの一斉スタートは、その木立ごとの同調圧力なのか、それとも他の♂に負けてはならんという過当競争の故だろうか。
 クマゼミは午前中で鳴くのを止めるため、昼頃や夕方はアブラゼミの声が大きくなる。
 15時30分ごろツクツクホウシがやってきた。いよいよ夏休みも折り返し点という気分だ。あとはミンミンゼミがくれば役者が揃うのだが、どういうわけかわが家周辺ではミンミンゼミは少ない。

2021年8月9日月曜日

ポストコロナ

   ワクチンあたりでそのうちにコロナは収束して昔のような世の中が来るという人がいるがどうだろうか。治療薬には一縷の望みがないではないが、コロナ肺炎ウイルス以外に見知らぬウイルスはゴマンといて、人間が自然を破壊するに比例して人間は自然界に復讐されると指摘されている。

 マルクス・ガブリエルではないが、利益が物差しではない、倫理を原則とした経済の仕組みにならざるを得ないだろうし、そういう声を世界中の声にしていく必要がある。

 未来の目から現在を振り返ると世界はある意味で革命期であったということになるだろう。そういう観点に立つと、そのうちにコロナも収束するだろうからその際は昔のように集会やデモで声をあげようという考えが如何に時代遅れで陳腐かということになる。しかし、SNSもしない、ネットも見ないという人は自分の歴史的立位置が見えていない気がする。

 実際集合しての行事、早い話が酒など酌み交わして談論風発というのは当分困難かもしれない。そういう時に、思い切って集合しない交流の新機軸を打ち出さずに「収まるまで待ちましょう」では歴史のかなたに打ち捨てられはしないだろうか。

 そういう議論をしたいが、なかなか議論は弾まない。これでいいのだろうか。

2021年8月8日日曜日

ノー モア ナガサキ

 明日は89日、ノー モア ナガサキ の日。

 ナガサキというと、全労働省労働組合(全労働)元副委員長福田幸雄氏は被爆当時長崎に住んでいた。ただ、ほんとうに爆心地近くに住んでいたのだが2日前に疎開していた。紙一重というよりも「神一重」というのが相応しい気がする。

 その上に、当日も爆心地に一番近い旧制中学校である県立瓊浦中学校で防空壕に逃げた後、警報解除で浦上駅にたまたま来た列車に乗り、少し離れた長与駅の列車の中で被爆された。

 疎開していなかったら、防空壕の外だったら、下校しなかったら、列車が来ていなかったら、長与駅で列車の外に出ていたら、その内の一つでも外れていたら亡くなられていた可能性が高い。

 そして本人は、証人がいないということで今も被爆者手帳をもらえていないという。

 被爆者手帳というと、先日黒い雨裁判があったが、その根拠となった調査結果と見解をまとめられたのは気象学者増田善信氏だった。

 私が全労働本部にいた頃、ほとんどの国公単組の本部は役所と共に霞が関にあったが、全労働本部と全気象本部は大手町にあった。その隣組である全気象本部委員長が増田氏だった。

 戦争中天気予報は軍部の機密とされ公表されなかった。それゆえに台風その他の予防もできず、被災後の救援もできないケースが多かった。その痛恨の歴史から全気象や国公労連は行政民主化と平和運動を重視してきた歴史がある。

 今コロナ禍を理由に改憲で緊急事態条項を目論む勢力が蠢動しているが、ノー モア ファシズム の声を忘れずにいたい。

2021年8月7日土曜日

想像力と正常性バイアス

札幌競歩の沿道の密
   コロナに関する緊急事態宣言が東京は期間延長され、大阪等は再び8月2日から8月31日まで発令されたが、ビッグデータでは都会の幾つかのポイント地点では人流が増加さえしている。これを主に若者の「想像力の欠如」と捉えるのが正しいのかどうか考えてみた。

 岩田健太郎医師はこの傾向は5月に医療崩壊した大阪や神戸でもそんな感じであったと述べられている。感染症対策では、医学プロパーの問題の外に、こういう社会政策を真剣に考える必要があるだろう。

 結局、政府から発せられた「人流は減ってきている」「ワクチン接種は進んでいる」「オリンピックはバブルの中に包み込む」「安全安心のオリンピックを決行する」というメッセージを若者たちは自ら検討し、「緊急事態はタテマエだ」と想像力を働かせたのではないだろうか。そのベースには正常性バイアスがあっただろう。つまり、想像力が欠けていたのでなく、そういう風にバイアスがかかるような発信がなされていたのである。

 その後修正(撤回)されたとはいえ政府は「中等症は自宅療養」という指示を全国の自治体に発出した。言うまでもなく、自宅療養にしろということは入院させるなということであるから、入院拒絶、棄民政策である。8月5日20時15分現在のデータの東京都の自宅療養者は16,913人である。

 岩田健太郎医師流に言えば、「地震が東京を襲い、瓦礫の下で16,913人が怪我をして閉じ込められていて病院に行けなくなっている状態と同じ」・・・だとすると、政府も政府だがメディアもメディアだということになる。16,913人の安否が心配な事態でテレビをつければ、やれ金メダルだ、やれ何個になったというテレビ画面ばかりである。本来なら16,913人で埋め尽くされていてもおかしくないのだ。これでは主に若者が人流を作っても不思議でない。

 やはり、少しまともな考えをもっともっと多くの人々が発信しなければならない。その際、前述の若者の心に届くように発信しなくてはならない。菅、小池、吉村があかんと言うだけでは言葉は届かない。

 先日ミニコミ紙を送付してお礼の便り等をいただいたが、やはりそこでの言葉は「送付状」についてが多かった。紙面でさんざん社会の批評をしていて、その上で送付状で同じようなことを重ねても「またか」になってしまう。自覚的民主勢力の人々にはもっと個性的に発信してほしい。

2021年8月6日金曜日

ノー モア ヒロシマ

   昨日の私のブログ記事にケンタさんが「小学校低学年の頃蜷川虎三知事に原爆の話を聞いた」とコメントがあった。さすが当時の蜷川京都民主府政とうらやましく思った。

 私はというとその頃、1954年(昭和29年)からビキニ環礁等で水爆実験が繰り返され、日本国中に放射能雨が降り注ぎ、「雨に濡れたらあかん」「放射能雨を被ると禿になる」と学校や親から注意されたが、何処からとも聞こえてきた「放射能ぐらいに負けたら元気に生きていかれへん」というヤンキー的な言葉に粋がって、知って濡れて歩いたりしていた。私が本格的に原爆のことを知り平和運動のことを知ったのは高校生になってからだった。

 さて全労働省労働組合(全労働)が核廃絶・被爆者援護の国民平和行進に本格的に参加したのは1976年のことで、正直に言って力の波はいろいろあるが今年まで継続して取り組んできた。その中で職場では「歩くだけで核廃絶が可能だろうか」「抑止力としての核兵器は無くならないだろう」という素朴な意見を死ぬほど聞いてきた。で、そのことについてほんの少し考えてみる。

 先日来、好きな歴史の本を適当に読み進めてきたが、世界の歴史を見ると、1945年以降76年間、本格的な戦争や兵役を知らずに生きてきた現代日本人はほんとうに例外ではないかと思うようになった。その力の根源が平和憲法にあることは間違いない。

 その歴史の俯瞰から、私は「現代日本76年が例外で、世界中はやがてさらに強力な兵器で殺し合うだろうと」諦めるのでなく、反対に、ぬるま湯的日本では見えにくかった世界の進歩を見たいと思う。

 歴史の物差しでは、たかだか76年前、ヒロシマ、ナガサキに原爆が落とされた時の日本には言論の自由はなく、思想警察が殺生与奪の力をもち、女性には選挙権すらなかった。

 また例えばアメリカで、キング牧師が暗殺されたのは1968年、その元となった公民権運動の出発点は日本では民主教育が進んでいた戦後でも、黒人は白人にバスの座席を譲らなければならないとか、スクールバスが白人と黒人で別々だというようなことだった。今でもBlack Lives Matter 運動があるが、当時から見ると時代は大きく進歩しつつある。

 お隣の韓国は、1980年に光州事件があったりして、軍事政権が本格的な民政に移管したのは1987年のことである。

 そうして1955年に発足した原水禁運動やその後取り組まれた国民平和行進は世界中に声を広げ、そしてついに、2017年7月7日核兵器禁止条約が国連総会で採択され、今年2021年1月22日に条約は発効した。問題は未だ批准しようとしない日本政府の姿勢であり、政権交代によって批准をさせたいものである。

 長々と書いたが、何も行動せずに「核兵器は無くならへんやろ」的に語る事への返書のつもりでこの記事を書いた。

 ハンナ・アーレントが問題提起した、一人ひとりの個人の「見てみぬふり」「思考停止」の罪である。先日逝かれた益川敏英先生の言葉でいえば「科学者(ここをそれぞれ会社員とか公務員とかに読み替えて)である前に人間たれ」である。先生はこうもおっしゃっておられる。「私は(思う)、あと200年経ったら戦争はなくなる」と。

 最後に重ねて言おう。政権交代で核兵器禁止条約を批准させよう! 2021年8月6日

2021年8月5日木曜日

八月や六日九日十五日

   明日は8月6日。ノーモアヒロシマの日。国連が核兵器禁止条約を採択したというのに、東京オリンピックの組織委員会はこの日に黙祷等の行事をしないことを決めた。理由は閉会式のパフォーマンスの中で主張済みだからというのだが、たかだか1分のこと、善いことはいくらやっても善いのでないか。 

 TOKYO2020なのだから、日本国中で国民が首を垂れている日にスルーするという決定の方が異常だと私は思う。

 穿った見方をすれば、大スポンサー米国が気を悪くしないかという忖度だと私は思う。しかし、テーマは人類共通の倫理的テーマである。もし私の想像通りであるとすれば、それは、ジェンダーその他の差別を公然と認めている国がある、よってオリンピックでは「人種やジェンダーの平等」を主張しないということと同じだと思う。違うのは忖度の対象が大スポンサーだということだけであろう。

 さて、以前に私は原水禁世界大会に参加したことがある。平和祈念式典にも参加した。広島と長崎のそれぞれの原爆資料館も訪れた。しかし何度も書くが、私の一番の体験はヒロシマの先輩と宿舎の一室で泊まった時のことである。その夜、先輩は大声をあげてうなされた。その尋常でない苦しみ様は文字では伝えられない。昼間被爆のことを語った夜はいつもこのようにうなされるのだと翌朝聞いた。

 後に私は精神障害の労災認定に携わったが、フラッシュバックの怖ろしさが文句なく理解できた。

 戦後生まれの人に「ヒロシマ・ナガサキを体験してみろ」と言われても不可能なことである。そこでお願いだが、二次体験でよいから語り伝えてほしい。二次体験もなければ「知り合いに被爆者のフラッシュバックに腰を抜かした男がいる」ことでも語り伝えてほしい。

 どんなことでもよいから、貴方のヒロシマ・ナガサキをネット上に書いて欲しい。「いいね!」のボタンで済まさないでほしい。

2021年8月4日水曜日

時間は平等ではない

 アベといいスガといい、政府与党は嘘つき政治家ばかりかと思ったが、中にはこんな正直者もいた。

 ■ 自民党の河村建夫元官房長官は31日、「五輪で日本選手が頑張っていることは、われわれにとっても大きな力になる」「五輪がなかったら、国民の不満はどんどんわれわれ政権が相手となる。厳しい選挙を戦わないといけなくなる」と語り、東京五輪で日本代表選手が活躍すれば、秋までにある次期衆院選に向けて政権与党に追い風となるとの認識を示したと報じられている。■

 落語「禁酒番屋」ではないけれど、この正直者めが・・・・。

 このように、政権が国民の批判をかわす手段としてスポーツを利用するのを「スポーツウォッシング」(スポーツの喧騒で洗い流す)という。そういう概念(言葉)が存在していることを先日知った。河村発言と併せて忘れないでおこう。感動や熱狂の裏にはこんなこともある。

 問題は、彼らの意識の中には、入院できずにたらいまわしにされている庶民、他の重病でも手術等が延期されている庶民、不幸にして亡くなった庶民の声が届いていないということだ。自宅療養だと? 入院拒絶でないか。

   さて、アインシュタイン博士の特殊相対性理論では時間は平等ではないが、そういう高邁な議論をするつもりはない。普通には、金持ちも、権力者も同じ時間を過ごし、大抵は100年も生きられない。だから「時間は平等である」と言われている。

 しかし先日も書いたが、小中高校生の1年は成人の1年以上に貴重なような気がするがどうだろう。老人施設に入居されている方々がご家族と触れ合う時間もそんな気がする。

 この1年半でいうと、ご家族と手を擦りあう機会もないまま逝かれた方々も多い。そういう人々の心を思うと、オリンピック施設内の感染者数は「想定内だ」とか、全国から看護師を動員して反省がないということに怒りを覚える。

2021年8月3日火曜日

プレーブック 虚しい

   新型コロナ対策の行動ルール(プレーブック)違反で小国の選手が資格を剥奪されたと報じられている。観光目的で外出したからという。

   ただ一昨日書いたように、金持ち国の「有力競技団体」の選手は最初から選手村に入らずホテルを使用しているからバランスはとれているのだろうか。上記の選手は見せしめに祭り上げられただけということはないだろうか。

   そのプレーブックだが、応援は拍手だけで声援はダメとされているが、山下JOC会長はマスクを外して声援していたらしいし、テレビの場面では選手と関係者がやたらに握手をしたりハグをしているが、誰もメダルを剥奪されていない。不思議である。

   私は、決して皆を処罰せよと言っているのではない。そうではなく、最初からできもしないことが分っていながら、ルールは作った、厳密に従ってもらう、だから安全な大会だ、と言う空虚さ、それを全く批判もしないマスコミに、私はある種の疲労感を覚えているだけだ。

   この種のことは昨日今日のことではないし、オリンピックだけのことではない。現職時分にこんなこともあった。

   封書を誤って違う人に送付した事件があった。個人情報漏洩問題である。その再発防止策が『今後は発送前に宛先と中身を上司と複数人で再確認する』というものだった。郵送する量は膨大だし、上司は上司で業務が山積みで、そんなことは出来っこない。早い話が人を増やさない限り解決はなく、誰もが嘘臭いと思う「防止策」なるものが「出来上がり」、その後の再発事案は「決まった要領を踏まなかった担当と上司の怠慢」として処分されるだけだった。できもしない「防止策」をつくった者は不問である。

   また、不正を行った職員の機械処理(業務はほとんど機械処理される)の再発防止策も、上司が正しい処理かどうかをリアルタイムで確認するという「防止策」が出た。そのままいえば、上司は四六時中部下の機械処理を監視しておかなければならない。そんな要領で業務が遂行されるはずもないが、それで終わりである。

   人員の確保、合理的なチェック体制、本気で議論すべき課題は全てそんな虚しい「防止策」の後ろに追いやられた。プレーブックのニュースに接して、この国はひとつも進歩していないなあとため息が出た。

   コロナがなくても、嘘にまみれたオリンピックの精神は大いに議論される必要があるだろう。

2021年8月2日月曜日

複雑な問題は単純ではない

   先日ミニコミ紙で清水ただし議員にインタビューを実施し記事を掲載した。その中で「大阪での維新について」次のように語ってもらった。

 ■ (維新が一定支持されていることについて)主要には、これまでの政治に対する不満を、言葉巧みにに期待を抱かせ幻想を抱かせてきたもので、ヨシモトや在阪メディアの露出のお陰でしょう。同時に、子育て世代への実利もすすめていることも事実です。一方で、公務員や高齢者等を「敵」に祭り上げて攻撃する分断の戦略が一定程度功を奏しています。■

 この「子育て世代への実利もすすめてきた」という文言について、よく似た文脈でSNS上で、「トータルでは子育て等の政策は後退しており、そんな風に語ることは維新への幻想を広める」「評価が甘い」的な清水さんへの批判が見られた。

 そんなこともあり「編集後記」では、状況をリアルに直視し、■ これまで維新が何をしてきたのかを具体的事実をもって丁寧に説明することで「引きはがせる支持」だ。・・・反対の押し付けではなく、提案型の『ご一緒に考えましょう』と丁寧に対話することで「引きはがせる支持」だ■ と清水さんの発言を補足した。

 言いたいことは、トータルとしての維新の嘘や横暴に辟易していても、実際に投票した人に紋切型に「維新はあかん」と言っても「引きはがせない」わけで、リアルな現実と人々の感情に耳を傾けて、語り続けることの重要性を再認識しようと私は聞いた。

 一昨日にこのブログで益川敏英さんの『必要な原子力研究の継続』を紹介したが、よく似た問題提起でもある。複雑な問題をそのままリアルに検討することなく、問答無用と一刀両断に斬り捨てるほど『確信的で正しい』かのような弱点、語る側の自省と私は読んだ。複雑な問題は複雑なまま検討し、やたらに単純化することはよくない事もある。

 ミニコミ紙も私のブログも、わが能力が及ばず明瞭ではなかったかもしれないが、どうかそのような行間を読み取ってほしい。

2021年8月1日日曜日

正しい夏休み

   「やったー金メダルだ」「メダルが幾つだ」と、聞こえてくる此方が恥ずかしくなるようなテンションでテレビが絶叫している。

 そう、親切なマスコミは心得違いをしている国民に感動と熱狂を善導してくれている。

 そういう風にスポーツを悪政のイチジクの葉っぱに使うことをスポーツウォッシング(スポーツの喧騒で洗い流す)と言うのだということを知った。

 「7.8月の東京は温暖だ」「汚染水はコントロールされている」等々の嘘と、莫大な裏金で実現したオリンピックに今さら驚かないが、メダルに近い日本の競技団体や金持ちの国の選手団は別途快適なホテル等を使用し、貧しい国々や競技団体はコロナ下で窮屈な選手村生活らしい。それが公平か、フェアプレイか、スポーツを好きな方もオリンピックはこれでいいのかという問いを忘れないでほしい。
   その一方で、「自粛だ」「人流が問題だ」と、プールの授業も夏祭りもない子どもらの寂しい夏休みが進行中である。とりわけ子どもたちの1年、高齢者の1年の「自粛、巣籠り」は残酷なほどである。

 そこで、わがイクジイコンビは顔に蝉のおしっこを浴びながら、正しい夏休みを実践した。場所はわが家とそれに隣接する歩道だが、そこは蝉の歩行者天国でもある。

   蝉捕り(昆虫採集)こそ夏休みの定番だ。撮影した妻は、孫よりも祖父ちゃんの方がイキイキしていたと評したが、孫もたくさん捕ったし、セミを糸で縛って飛ばしたり、写真のとおり部屋の中でも十分遊んで最後は解放した。

 これこそ正しい夏休みだと私が言うと、妻は時間を持て余している祖父ちゃんに賢くつき合ってくれた夏ちゃんこそエライと断定した。