2020年2月20日木曜日

古池や

   NHKの「英雄たちの選択」で芭蕉が取り上げられていた。
 その冒頭、著名な俳人長谷川櫂氏をはじめとするゲストの皆さんや磯田道史氏が芭蕉のイマジネーションの豊かさを褒め称える文脈の中で、「蛙は池に音を立てて跳び込まない」「蛙はスーッと音を立てずに池の中に逃げるものだ」「芭蕉のイメージの中で跳び込んだのだ」「そうだ、そうだ」と言い合っっていた。

 そこで私は、寅さん流に「皆さん、さしずめインテリだな」とテレビに毒づいた。
 蛙は人の気配等を感じたらポチャン、ポチャンと普通に音を立てて池に跳び込む。何を言ってるのですかこの人たちは・・と私はあきれた。

 同じような経験は以前にもあった。
 子規19歳で初めて活字になった句に『虫の音を踏みわけ行や野の小道』というのがあり、近代文学の某先生は、この句について「踏みわけ行ったら虫は鳴き止むからこの句は写生とはほど遠い観念的な句である」と講義された。


 その折も私は些か同意しかねる気持ちになったことを覚えている。
 私が不同意と感じた主旨は、虫の音の盛りの頃は「踏みわけ行ったぐらいでは鳴き止まないぞ」「踏みわけ行ったら鳴き止むという定説なるものの方が観念的ではないか」という感覚だった。

 文学もイマジネーションも否定する気はさらさらないが、事実を直視せずに観念をもてあそんで解説する文学者は嫌だ。嫌だ、嫌だ。

   暖冬や田起こし前に鳬(けり)の啼く

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