にわか俳人たちに問うが、立春が過ぎて本格的な冬空到来というのも皮肉っぽくて愉快でないか。
私は俳句における季語を認めているが季語絶対主義者には疑問を抱いている。
現実の自然という事実を軽視して季語の観念を優先するのはどうも馴染めない。
ここ数日は西高東低の冬空だが風がないので天気予報士の言うほどの辛さはない。
ただ、曇り空と低温が重なると、体よりも心が萎えてくるのが自分でもわかる。
いっぽう、空が明るいとこれしきの低温など気にならず散歩にも出たくなる。
散歩と言ってもほんとうに近所をぶらぶらするだけだが、遊歩道は豆まきの翌日のように見事な散らかりようだ。そして頭の上には冬の日を受けて真珠のような楝(おうち)の実が輝いている。豆まきの主犯は鵯(ひよどり)だ。豆は豆ならぬ楝の実だ。楝も鵯も季語は秋らしいが、立春過ぎの冬空に輝くこの現実に感動して悪いだろうか。
8日は十五夜、9日は十六夜だった。月は秋というけれど、冴えきった冬空の満月も神々しいほど美しい。それでも月は秋ですか。
「鬼は外」したかのような鵯(ひよ)の面(つら)
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