2019年8月17日土曜日

遠浅(とおあさ)の思い出

 お盆休みと超大型台風ということで「水の事故」のニュースがたくさん報じられている。
 幼児、小中高校生、大学生そして大人など様々だが、楽しい夏休みに降ってわいた悲惨な事故にあわれた関係者の悲しみはいかばかりだろうか。ニュースのこちら側の私の胸も痛む。

   小学生の頃、毎日のように海に行っていた私は結構カッパだが、土用波に引き込まれたこと、島の沖で潮流に流されたこと、琵琶湖で突然水温の低いところに入ってしまったこと、川で流されたことなど、振り返ってヒヤッとしたことがいろいろあった。
 自然は侮ってはならない。

 今の南海本線堺駅の西南の方向に大浜海水浴場があった。
 明治時代からのリゾート地である上に、遠浅(とおあさ)であったから、海水浴の帰りには「もち貝」を採って帰って家で貝焼きにした。
 「もち貝は美味しくない」というようなネット記事を見たが、どこかの誰かの文の丸写しだろう。そのまま網に乗せて焼いて醤油を垂らすと非常においしい。よく海の観光地で売っている大アサリなど問題にならない。

 時にはワタリガニも土産になった。これは狙って採ったというよりも、相手が勝手に私の足指を挟んできたからだった。
 海水浴の半分以上はそんな土産採りのようなものだった。
 大浜よりも南に行くと浜寺海水浴場である。
 ここも遠浅だったが、沖の浅瀬に行く途中に大人の背の高さほどの深い帯があったから、私は大浜の方が断然好きだった。

 浜寺の海岸べりの浜寺公園は進駐軍のキャンプに接収されていたから、戦後何年かは「日本人off-limits」だった。
 その後、日本人も泳いでよろしいとなったが、阪堺線の浜寺公園駅のところから海辺まではキャンプの中の狭いフェンスに囲まれた細い道を、日本人が「通らせてもらう」体であった。
 こんな話は堺人でももうあまり語られることがない。

 海水浴場としてすばらしかった遠浅は埋め立て工事にも魅力的だったらしい。
 私が郷愁と郷土愛で振り返った茅渟の海はその後コンビナートになり、一時は「堺で製造されていないものはない」というほど多種多様の工場が操業した。そのトップランナーは当時の新日鉄だった。
 それがあっという間に君津に出て行ってしまい、私に言わせれば、往時の活況は見当たらない。
 今さらながら思うことだが、大企業には郷土愛も、もっと言えば愛国心も無縁なのだ。
 それらが大スポンサーであるマスコミ文化が偏狭な似非愛国主義と根のないグローバリズムで覆われているのも納得がいく。
 でもって私は戦車に向かう蟷螂のようにかつての郷土を語りたいのだ。

   雨戸閉め息ひそめ居る炎暑かな

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