2019年8月6日火曜日

住吉祭の現代史


 中公新書に東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』という名著があり、その中に小宮木代良氏の『歴史資料と言説』という章があり、摘んでいえば「歴史的事実は70年目あたりを境に大きく変化し、様々な言説が大手を振って歩く出す」という指摘がある。
 そして、悪意がなくてもそれに近いことが起こりうると感じたことが今般起こった。

 というのも、83日の赤旗に通信員の通信記事として、住吉祭の神輿渡御がきれいな写真を添えて掲載され、「1941年、太平洋戦争で中止された「神輿渡御」は、2005年に、市民の熱い思いで半世紀以上の時を超えて伝統を復活させた祭事です」と書かれていた。

そこで、「いやいや戦後の1960年頃には神輿渡御は復活していて大和川の中を渡っていた。私は大和川の土手で楽しく見物していた。その後、高度成長の中で各地のお祭りが低調になったのと歩調を合わせるように橋の上をトラックに載せて渡御するようになり、それをさらに元の形に復活させたのが2005年頃のことだったのだと思う」「1941年から2005年まで途絶えていたというのは事実ではない」と私はフェースブックに書いた。

 これに対して「歴史たんけん堺」などの編纂で著名な小松さんが自身のフェースブックで、「途絶えていた大和川のお渡りが復活したのは2004年、大和川つけかえ300周年の年でした。その時の写真では橋の上も堤防も人がほとんどいません。その後少しずつ地元で盛り上がり、今は堤防にぎっしり。すばらしいイベントになりました! 戦争が激しくなって大神輿のお渡りを中止したのは1941年とか。戦後、別の神輿の渡御が復活したけれど、1950年代頃に中止になったとか?住吉大社の年表でもわかりません。どなたか情報をお持ちの方教えてください!」と記載されたが、有力なコメントは出てこなかった。

 記録がないと、数十年前のこんな事実も解らなくなるのかと思うと同時に、慰安婦や南京虐殺について歴史修正主義が跋扈するのを看過できないと改めて考えた。

 なお、この件については、堺の宿院町東の調御寺の加藤住職に電話したところ「私も戦後の大和川でのお渡りを見た」ということで、すぐに住吉大社宿院頓宮に尋ねに行ってくれた。
 宿院頓宮の話では、昭和24年(1949)から35年(1960)まで、大和川の中を渡る渡御があったということだった。
 ただし、疫病発生等で例外的に中止になった年もあったということで、それらのことは堺市立図書館に「調査報告書」?として残してあるということだった。
 この件はこれで一件落着でよいだろう。

 追伸 私自身小学生の頃のことだからいろんな誤解もあるかもしれないが、「大浜から水上飛行機が出ていた時があった」「宿院から大浜公園までトロリーバスが走ったことがあった」と記憶しているのだが、いろんな史料やネット検索をしても全く見当たらないし、「そうだそうだ」と言ってくれる人にも会っていない。現代史というのも個々にはこんなことがいっぱいあるのだろうから、一次史料の発掘は重要かつ喫緊の課題だと思う。
 そんな計画があったという新聞記事を誤解したのだろうか。
 水上飛行機とトロリーバスは今も頭の片隅でもやもやしている。

2 件のコメント:

  1.  想像の域を出ないのだが、昭和35年(1960)を最後に大和川の中に入る渡御が中止されたのは当時の大和川の水質悪化が一つの要因ではなかったか。
     もう一つ、祭りの担い手が減ったこともあるような気がする。堺でも港の埋め立て、漁業権の放棄などが始まり、そういう業種ごとの講がやせる一方、サラリーマンが休暇を取れないモーレツ時代がそうさせたような気がする。
     堺の開口神社(大寺さん)の布団太鼓も「穴子屋」の太鼓がなくなったのもその頃だったと思う。

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  2.  以前読んだ雑誌「上方」だったか「大阪春秋」に「民間航空の草分け」として、大正11年11月、堺市の大浜海岸で日本初の民間航空会社を創設したのが井上長一氏」記述がありました。確か最初は航空郵便業務をしていたのではないかと思います。
     神輿渡御については雑誌「上方」や「大阪春秋」に詳しく載っていますのでいずれまた。

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