ニーチェの話ではない。
11月月6日に『旅する神々』というシンポジウムが春日大社であった。
花山院(かさんのいん)宮司の基調講演に続いて語った方々は、神崎宣武氏、安藤礼二氏、鹿谷勲氏らであった。コーディネーターは奈良新聞論説委員。
いうまでもなく春日大社は神社神道の代表バッターの一人だし、花山院宮司は藤原氏そのものである。
一方、神崎氏は由緒ある村社の宮司であるが宮本常一の弟子を任じておられる。
安藤氏は多摩美大の先生だが折口信夫の思想的後裔とお見受けした。
鹿谷氏は奈良民俗文化研究所所長である。
ということで、正統派神社神道と民俗的神々の話が飛び交って実に刺激的な半日だった。
といって、ここで『旅する神々』のことを詳しく書く気はないが、そもそも神はどのように認識されていたか 御旅所へのお渡りの意味は? お祭りと芸能の関係? 野の神と神社の神? 等々私としては満腹感を感じたものだった。
それよりも、パワポで紹介された行事の数々が、「これは何年前からされなくなった」「この行事も形を変えてしまった」という話があまりに多いことに驚いた。
戦後と呼ばれた時期、高度成長といわれた時期でなく、ここ数十年から数年の間にも「粛々と」神々は退場していっている。
村の神々、野の神々は死んだのか。
医学や技術、政治や戦争や民族問題、ほんとうに哲学が必要とされているのに神々は退場していっている。神だけでなく仏も同様かもしれない。
で、騒ぐ心を落ち着かせて、内侍道(ないしみち)を通って本殿に移り、全国的にみても非常に古い様式を伝えているという貴重な御神楽を受けさせていただいた。
平安の神楽舞なり秋の暮
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