娘婿はいわゆる雨男である。少し行事めいた日には決まって雨になる。
「やっぱりなあ」と私が言い、みんなで笑う。
だがしかし、この話、考えてみれば雨の日の有意性がそんなに厳密に実証されたものでもないし、雨男・雨女の存在の論理性などある筈もない。
左巻健男氏の著書によると、こういうのを「認知バイアス」の中の「確証バイアス」というらしい。
早い話が雨の降らなかったときには何の注意もひかなかったが、雨の降ったときにだけ「そういえばこの間も・・」と思い出す。
人間は、自分の信じていることと矛盾する証拠を無視したり、曲解する傾向が普通にあり、自分の信じていることを裏付ける証拠や議論ばかりに目を向け、認知する心的傾向があるらしい。
だから、多くの人々がニセ科学を信じてしまうのは、科学知識の不足、理科教育(科学教育)の弱さだけでもないという。
ということを分かったうえで、洒落で雨男を笑うのはいいけれど、高額の健康食品や器具の理由づけになるような話はいただけない。
先週、北海道で小学生が行方不明になった。
そのとき私はテレビに向かって叫んでいた。
これまでテレビに出たことのある「占い師」「霊能者」「超能力者」のみなさん、すぐに透視をして子どもの居場所を教えてください・・と。
熊本地震の予知しかり、フクシマ原発事故の現状分析しかり、ほんとうに大事な局面では皆さん方は出てこない。
元に戻って、選挙になると自公は耳触りのよいこと(この言葉は誤用であるが)をいう。
庶民は、半分以上眉に唾をつけてそんなものだと思いつつも、そうなって欲しいという自分の願望に沿うように理解しようとする。「今回はそうなるかも知れない」と。認知バイアスだ。
21世紀の私たちは、それを知ったうえで自分を客観視できるセンスが必要だ。
自分を客観視するというのは、決して幽体離脱の話ではない。
認知バイアス、確証バイアスの話は民主的である人々にも例外ではないように思う。
返信削除でないと、正しいことを言っているのだが相手の心に届かないということが発生する。