フランス文学者の田辺貞之助は、大島町の埋立地で朝鮮人と思われる250人ほどのほとんど裸の死体が並べられているのを見ている。その中には、喉を切られているものあり、後ろから首を切られているものありで、一つは完全に頭が落ちていて無理にねじ切ったようだったという。女性の死体は一つだけだったが、若い妊婦で腹を裂かれ、六、七か月の胎児がむき出しで、妊婦の陰部には竹槍が刺されていたという。
のちに国策パルプの社長となる南喜一は、労働運動活動家であった実弟の吉村光治を亀戸事件で殺されている。真偽を確認しに亀戸署に行ったところ、日本刀を下げた巡査部長に薄暗い留置場に案内され、そこで多数の死体を目撃、南自身も斬り殺されそうになったので、必死に逃げたとの回想記を、戦後に雑誌に寄せている。
黒澤明の自伝『蝦蟇の油——自伝のようなもの——』の中では、当時13歳だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。その中に、黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸の外の塀に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある。
作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていたことが分かっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川の「大震雑記」(『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている。
菊池寛は芥川龍之介を𠮟りつけた。芥川が、かの大火の原因やボリシェヴィキの手先という朝鮮人に関する流言飛語を話題にしたからである。芥川龍之介「大震雑記」に次のような記述がある。「僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、『嘘だよ、君』と一喝した。…しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシェヴィツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度も眉を挙げると、『嘘さ、君、そんなことは』と叱りつけた。」(言論統制による伏字部分は朝鮮人を表わす用語)
流言に皮肉をぶつけていた芥川龍之介や流言の嘘を見抜いていた菊池寛とは異なり、鎌倉で罹災した久米正雄は流言を真に受けて夜も眠れず「鎌倉震災日記」に流言を聞いた夜は「一挺の鉈をたよりに」警戒したと書いている。
「昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。」(寺田寅彦『震災日記』「九月二日」)
「爆裂弾を投げつけたとか井戸に毒を入れて回っているとかいう“不逞鮮人”の噂は、もう9月2日には私も聞かされていたのではないかと思う。」(木下順二『本郷』)
「こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気があふれて来た。(略)私も握り太のステッキで一ッ喰(くら)はしてやろうと思って駆け寄っていった」(染川藍泉、俳人・十五銀行本店庶務課長)
竹久夢二は都新聞に連載していた挿絵付きルポルタージュ「東京災難画信」の9月19日掲載分で「子供達よ。棒切を持って自警団ごっこをするのは、もう止めましょう」と呼び掛けている。
徳富蘇峰は震災1ケ月後、國民新聞のコラムで「今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた」と断言した。
志賀直哉は日記「震災見舞」に次のように綴った。「丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。…『―鮮人が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』…『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ』二人は笑つてゐる。」さらに続けて志賀は自身の心境を「ひどい奴だとは思つたが、不断左う思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」と綴っている。
田山花袋は『東京震災記』において朝鮮人狩りに批判的アプローチをするが、その一方で『中央公論』編集者木佐木勝の日記には田山の武勇伝として「鮮人が毒物を井戸に投げ込むという噂を聞き、花袋老大いに憤慨、ある晩鮮人が自警団の者に追われ、花袋老の家の庭に逃げ込み、縁の下に隠れたので、引きずり出してなぐってやったと花袋老武勇伝を一席語る。」と書かれている。
逃げ隠れをしても発見されて殺害に至った事例が、釣り師の鈴木鱸生(鈴木雷三、1898年-1983年)の証言によると、「逃れた朝鮮人が子どもを連れて青田の中に潜んでいると、町内会の者達がそれを引き出して殺してしまったりと、随分残酷なことをした。」(鈴木鱸生著、竹之内響介編『向島墨堤夜話: ヨミガエル明治大正ノ下町』)
伊藤圀夫は自分も加害者に成り得たという思いから後に芸名を「千田是也」(「千駄ヶ谷のKorean」の意味)と名乗った。当時早稲田大学に在学していた伊藤(千田)は自警団に絡まれ暴行された出来事を次のように証言した。「内苑と外苑をつないだ道路の方から、提灯が並んでこっちにやって来るのが見えた。あっ、“不逞鮮人”だと思い、その方向へ走っていった。不意に私は、腰のあたりを一発殴られてしまった。(中略)そのうち、例の提灯にも取りまかれ、『畜生、白状しろ!』とこづきまわされる。」「私はしきりに、日本人であることを訴え、早稲田の学生証を見せたが信じてくれない。興奮した彼らは、薪割りや木剣を振りかざし『あいうえおを言え!』『教育勅語を言え!』と矢継ぎ早に要求してくる。(中略)もうダメだと覚悟したとき、『なあんだ、伊藤さんのお坊っちゃまじゃないですか』という声がした。(中略)その一声で私は救われた。」(西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』)
沖縄出身の歴史学者・比嘉春潮は、当時、淀橋(現・新宿区)に住んでいた。震災後、数日経った夜、自警団が自宅を訪問し、「朝鮮人だろう」「ちがう」「ことばが少しちがうぞ」「僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」と押し問答になった。身の危険を感じ、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいたことから、警察で白黒つけようと持ちかける。しかし、連れて行かれたのは近所の交番で、ここでも同じやりとりを繰り返しているうちに、日本刀を持った自警団の一人が「ええ、面倒くさい。やっちまえ」と怒鳴った。それでも何とか淀橋署に行くことになり、無事で済んだ。また、行方が分からなくなっていた甥の春汀は、「朝鮮人だ」と叫ぶ自警団にこん棒で殴られ、頭に包帯を巻き、血糊をこびりつかせた状態で飯田橋署に留置されていた。
「後ですべてデマだとわかりましたが、そのどさくさでは確認のしようもなくて朝鮮人狩りが始まっていったのです。朝鮮人をひとり捕まえたと言って、音楽学校のそばにあった交番のあたりで男たちは手に手に棒切れを掴んでその朝鮮の男を叩き殺したのです。私はわけがわからないうえに恐怖で震えながらそれを見ていました。」(清川虹子、女優)
「町で実際に朝鮮人が殺されているところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていた。いきなり後ろから頭を割られ、それでも歩き続け、ついに倒れるとお腹や背中を金属の棒で突いているのである。こちらに力がないから止めることができず、もし止めていたら殺されていただろう。」(早川徳次、シャープ創業者)
「旦那、朝鮮人はどうですぃ。俺ァ今日までに六人やりました。」「そいつは凄いな。」「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサァ。」(『横浜市震災誌』)
墨田区の御蔵橋では、「五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、(中略)通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く。」(西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』)
被服廠跡(現・横網公園)では、「わずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を四人、十人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイ(棒杭)で押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです。」(西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』)
1980年代に荒川河川敷に朝鮮人虐殺被害者の遺骨を探し、10年にわたる調査で延べ150人の証言を聞書きした市民グループ「ほうせんか」編の『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(1992年、教育史料出版会)には、軍隊による殺害行為として「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして、橋の下手のところに三カ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた」[157]、「…女も2〜3人いた。女は…ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた」と記述されている。
ある一兵士の日記には次のようなことが書かれている。「9月3日 雨。午前1時頃、呼集にて、また東京に不逞鮮人がこの機に際し非常なる悪い行動をしつつあるので(井戸に毒薬投入、火災の先だって爆弾投下、強姦等やるので)、それを制動せしめるため、38騎銃携行、拳銃等も実弾携行し、乗馬でゆくもの徒歩でゆくもの、東京府下大島に行く。小松川方面より地方人も戦々兢々とて、眠りもとれず、各々の日本刀、竹やり等を以って、鮮人殺さんと血眼になって騒いでいる。軍隊が到着するや在郷軍人等非常なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そして川に投げ込んでしまう。余等見たのばかりで、20人一かたまり、4人、8人、皆地方人に斬殺されてしまっていた。
「四、五百坪の空地に、裸体に等しい約二百五十体の死骸が遺棄されていた」「目をそむけないではいられない無残なものばかりだった。(略)なんという残酷さ、あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」(田辺貞之助、フランス文学者)
「とにかく鮮人に対して、あの時日本人の行ったことは、これは何とも弁解のしようのない野蛮至極のものであった。ああ云う場合、この国の人間には、野蛮人の血が流れているのではないかという気がする。」(広津和郎、小説家)
「そうしてグルリと朝鮮人をとり囲むと何ひとついいわけを聞くまでもなく問答無用とばかりに手に手に握った竹やりやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。 それもひと思いにバッサリというのでなく、皆それぞれおっかなびっくりやるのでよけいに残酷だ。頭をこづくもの、服に竹やりを突きたてるもの、耳をそぎ落すもの………二百以上の木のすべての幹に血まみれの死体をつるす。………」(田畑潔の証言「真っ赤な川」)
野上弥生子は日記に「鮮人を殺した血でおみくら橋の下の水が赤くなって、足さえ洗われなかったという話」を書いている。
西崎雅夫が民衆から集めた証言によると「首・手首を切り落とす」「電柱に縛り付ける」「投石で虐殺」「火あぶり」などが行われている。
西崎雅夫『八広に追悼碑ができるまで―東京の朝鮮人虐殺の実態―』によると、「神田で妊婦を刺したら『アボジ(お父さんの意味)』と叫んだ、と聞いた」(神田、羅祥允の証言)、「腹を割かれた妊婦の死体と、陰部へ竹の棒を刺された女性の死体があった」(大島、高梨輝憲の証言)、「知り合いの奥さんが雑木林で凌辱され虐殺された」(古川、後藤順一郎の証言)
流言に惑わされた自警団は「朝鮮人が変装している」として警察官や軍人をも襲撃したことが吉村昭『関東大震災』(1973年、文藝春秋)に記録されている。
江口渙は騎兵第13連隊の越中谷利一から直接聞いた話として、二子玉川近くの中州で三四百人の朝鮮人が騎兵第13連隊に夜襲を掛けられ包囲殲滅されたが、その際ピストルや日本刀で抵抗するものもいた。五六百人の朝鮮人が習志野捕虜収容所に連行され塹壕を掘らされ機関銃で一斉に射殺され埋められた。埼玉県妻沼の利根川河原で三百人の朝鮮人が地元住民に惨殺された。などの話を紹介している(関東大震災亀戸事件四十周年犠牲者追悼実行委員会 編『関東大震災と亀戸事件』1963年)[176]。実際の妻沼事件の犠牲者は日本人1名であるなど、いずれも現実にあった事件としては確認できないが、朴慶植の『天皇制国家と在日朝鮮人』でも引用されている。
島崎藤村は東京朝日新聞連載の震災小説(震災記とも呼ばれる)『子に送る手紙』(表題は『飯倉だより』)において、報道規制解除後の10月22日に掲載された最終回にて曰く「怪しい敵の徘徊するものとあやしまられて、六本木の先あたりで刺された人のことを後になって聞けば、まがいもない同胞の青年であったというような時であった。某青年は声の低いためと、呼び留められても答えのはっきりしなかったためと、宵闇の町を急ぎ足に奔り過ぎようとしたためとで怪しまれ、血眼になって町々を警戒して居た人達に追跡せられて、そんな無残な最後を遂げたという。
「彼らを奥の離れの部屋にかくまって、手当てをしてやってくれ。誰にも話してはならぬ」(荒川放水路工事責任者青山士、朝鮮人労働者5人を自宅に連れて帰り妻に要請する)
「騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして、彼等は自ら悪事を為し、これを朝鮮人に転嫁し事ごとに朝鮮人だという」(神奈川警備隊司令官奥平俊蔵陸軍少将、自叙伝)
「よし、君等が我輩の言ふ條理を解し得ないなら、今は是非もない、鮮人に手を下すなら下して見よ、憚りながら大川常吉が引き受ける、此の大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の續く限りは、一人だつて君達の手に渡さないぞ」(神奈川警察署鶴見分署長大川常吉、千の群衆に対峙して)
🔳再録おわり