2024年6月25日火曜日

堺中心部の高低差

   ブラタモリが終わってだいぶ経つが、彼の「高低差から歴史を読み解く知識」には敬服する。
 確かに、等高線のない普通の地図によって生活している分には解らないことが、現地では一瞬に解ることもある。
 私の故郷堺のことを話すと、大阪市の中心部から南海堺東駅前を抜けて泉南まで通る幹線道路に大阪府道30号和泉泉南線がある。(地図の朱線)

 少し話を寄り道すると、昔はこの道路のことを市民はみんな(ほんとうにみんな)『13号線』と呼んでいた。誰もが国道13号線か府道13号線だと信じていたが、理由は結局不明で、昔『13間道路』と呼んでいたからではないかというのが一番「正解」に近いということになっている。それ以上のことは知らない。
 それにしても、旧称や愛称は大いに賛成だが13号と30号では紛らわしい。

   話を戻すと、平面の地図ではそういう南北を貫くひとつの幹線道路だが、大雑把に言うとこの道路から東側は丘陵になっていて、ここに高低差(段差・坂)がある。
 中世からの自治都市堺(旧市街地)は西側で、そこに住んでいたわが家あたりは土を掘ればすぐに砂地が顔を出した。だから、縄文に遡ればここが海岸線であっただろう。
 この段差の西側には弥生の遺跡があるからその頃にはもう平野であっただろう。

 ここからが本題だが、この東側の丘陵地帯に有名な百舌鳥古墳群があるのである。
 そのうちの巨大な古墳は大王墓(いわゆる天皇陵)であることを否定する学者はほとんどいない。
 だが、どの古墳が記紀のどの「天皇陵」と見るのかについては、いくつかの説がある。
 例えば、伝仁徳陵がその子の伝履中陵よりも新しそうだという重大な指摘がある。

   また、伝履中陵の南西の石津に巨大な乳岡(ちのおか)古墳があった(大きく破壊されている)が、この古墳がこの辺りでは一番古い巨大古墳だという指摘がある。この場合、ここが段差の西というのがポイントで、つまり百舌鳥の丘陵上ではない。(少し低い岡)

 ということを繋ぎ合わせると、弥生以降栄えてきた和泉の海岸線近くの豪族の完成形が乳岡古墳で、いよいよ従来の大和の王権をしのいで河内王朝を樹立した、後の大王墓(天皇陵)が伝履中陵以降の百舌鳥の丘陵上の巨大古墳でないかというのが故石部正志先生の説のように思われる。
 13号線もとい府道30号線の東西の高低差を身をもって知っている私は、こうして石部説に大いに魅かれているのである。(ただし、これは学界の定説ではない)

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