2021年12月15日水曜日

古代の乗用車

 平城京を北に向かうと木津川にぶつかる。古代の「幹線道路」にあたるのは川=船運であって平城京の重要な陸揚げ拠点が木津であった。それを裏付けるように、以前に、木津の近くのR163のバイパス工事現場で当時の大八車?の轍が発見されてそれを現地説明会で間近に見ることができた。
 そのときに、このように大八車=車輪があったのに、平安京では牛車が活躍したが平城京ではそう言う話を聞かないことが不思議であった。ただし、それ以上勉強もせずその疑問は忘れていた。

 昨日、小笠原好彦教授による古代史講座で長屋王の変を学んでいるときにその意味が判ったようで自分自身で納得したことがある。
 さて、古代史を忠実に再現するイラストレーターに早川和子氏がいる。多くの文献を踏まえて正確に描こうと努力されている方である。

   長屋王は、謀反人とされながらも勅(みことのり)して「罪人に准(なずら)ふと雖(いへど)も、その葬(はぶり)を醜(いや)しくすること莫(なか)れ」とされ、生馬山(いこまやま)の平群(へぐり)に葬られたのだが、そこへ向け棺が長屋王宅を出発する早川氏のイラストが目についた。

 つまり、平安より前の古代においては、牛車は乗用車ではなく霊柩車のイメージが強すぎたのだろう。
 それは、葬送の歌、死を悲しむ歌を挽歌(ばんか)(挽(ひ)く歌)ということと通じている。
 現代の乗用車でも、リア(後ろ)の扉を左右対称の観音開きにしていないのは同様の連想があるからではないだろうか。

 古代の謀反、その中の長屋王の変などを学びながらも、講義の主要ではない変な個所が印象深かった。

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