2021年2月21日日曜日

多様な世界

  つくづく感じるのだが「現地の声は重い」。各論については私自身「正解」や解決策があるわけではないが、そういう事実を知った上で語ったり書いたりすることが極めて重要だと反省するだけだ。
 先日の中村医師の本に要旨こういうくだりがあった……

 ◆1989年、マホメットを冒涜するとされた出版物「悪魔の詩」に抗議するデモがイスラム世界全体で荒れた。2月にペシャワールの英国領事館が爆破された。「言論の自由」をかざす西欧近代と、それにはかえがたいものを守ろうとするイスラム社会との対立であった。
 イスラム側の過剰反応であっても、そこに欧米側の思慮と内省が働いていたとは思えない。
 当時のイスラム教徒の心情は、一昔前の日本で、神社の御神体や寺の仏像に、突然外国人が押し入って小便をかけられた感じに近いであろう。コーランの句は御神体以上のものである。暴動は政治的にあおられたものではなく、ごく自然発生的なものだった。そしてペシャワールではほとんど見聞きしなかった外国人への襲撃・誘拐が頻発するようになった。
 明けて1990年4月ペシャワール市内のキャンプで暴動が発生し、アフガン難民約1万人が英国系NGOを襲撃、掠奪のかぎりをつくした。これによって同団体のプロジェクトは壊滅した。
 ねらいうちにされたのはたいていが「女性の解放」に関するプロジェクトであった。自国受けする「男女平等主義」のテーマはアフガニスタンから見れば異様な「文化侵略」と受け取られ、女性が自然に社会進出する傾向は、これによって逆に摘み取られてしまった。
 同様の事件は周辺のキャンプに次々に飛び火し、さらにいくつかの主要な欧米NGOが襲われた。フランスの国境なき医師団が追放され、一部は殺害された。欧米側の反応は「犬以下の恩知らず」という高飛車な決めつけ方で、イスラム民衆のさらに大きな反感を買った。
 (自身はクリスチャンである中村医師はこう続ける)難民を犬以下よばわりし、現地事情や人々の習慣・心情を理解できぬプロジェクトのグロテスクな肥大、騒々しい自己宣伝、自分の価値判断の絶対化が見られた。と
 いかに不合理に見えても、そこにはそこの文化的アイデンティティがある。性急に自分たちの価値尺度を押し付ける点では、西側もイスラム原理主義者と同じ対応をしたわけである。
 さらに1991年1月、湾岸戦争が勃発し、すでに撤退傾向にあった欧米諸団体の活動は、これによってとどめをさされた。欧米人の姿はペシャワールから忽然と消えた。最大の現地NGOであったスウェーデン難民委員会の主要メンバーが爆殺され、国連難民高等弁務官事務所にも爆弾が投げ込まれた。
 国連機関のプロジェクトも次々に閉鎖され、ユニセフのペシャワール事務所、国連難民高等弁務官事務所、国連輸送部、国連アフガニスタン救援委員会も軒並みひきあげた。
 そして、アジア系の人を残留部隊にして、自分たちが我先に逃げるのも普通であった。
 「イスラム教徒のメンタリティを疑う」人々が、あっさりと現地を見捨てて去っていく。格調高いヒューマニズムも、援助哲学も、美しい業績報告とともに……
 あれほど巨費と労力を投入した「難民帰還・アフガニスタン復興」の騒ぎはここに分解した。……我々はそれどころではなかった。何事もなかったかのように診療活動を続けていたから、ほとんどの難民診療機関が閉鎖したので、病人が押しかけ、多忙を極めていた。◆

 中村医師は本の全編を通じて決して国連や欧米の活動をけなしたりはしていない。しかし、テレビでは見えなかった事実がここにはあった。
 私だって、当時あまりの偏った欧米側の情報の中で「フセインは相当な兵器を持っているのは否定しがたい」と信じたし、テレビはゲームのように映した戦場を提供した。小泉内閣は、つまり日本は、90億ドルをもってこれに参戦したのだ。その当時私は、その現地で中村医師たちの献身的な活動がどれだけ危険にさらされたかには思いは及ばなかった。

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