2021年2月15日月曜日

コロナとの共存

   昨春のお花見の中止以降、退職者会は書面総会と会報の紙上交流を行ってきたが、コロナの収束が不透明なまま1年後の春を迎えている。     このままテレビの流すデータを待っているだけでよいのか。屋外で距離をとってお弁当を食べるような行事はほんとうに無理だろうか。書面総会にしても、文章に気持ちを載せて、集合の総会以上の意見や気持ちの交流を図るためにはどんな工夫をすべきか。私はこのまま自粛自粛ではない積極策を考えたいのだが、皆はどんな気持ちでいるだろう。私の頭の中は空転し、胃袋の辺りはもやもやしている。

 14日のブログの記事の冒頭に山極寿一先生の文の一部を引用したが、元の文章は11日か12日の朝日新聞の『科学季評』で、メーンタイトルは『文化の力奪うオンライン』サブタイトルが『コロナ・縮む社交の場』というものだった。

 コロナ下に何人かが集うことを想定した場合、集まった人は基本的には元気な人であろうが、その家族、あるいは別のステージで接触した人、それらの人の先に国境や県境を越えてきた人がいるという想定は非現実的な話ではない。故に、無症状の感染初期に感染力が強いともいわれているから、3密を避けるというのは正しい判断だと私は思う。

 こうしてオンラインが社会の標準になりつつあるが、私の周りではオンラインすらあまりなく、結果、ただただ疎遠、人間関係が希薄になりつつある。そんなもやもやとした悩みを抱いていた中で山極先生の文に出遭ったのだが、メーンタイトルのとおり、疎遠は論外として、オンライン社会すらよくないと指摘されているので私は目から鱗の感慨にひたった。

 先生の文を独断で摘むと次のとおりである。

 ◆ 私たちは3密を避けて暮らすことを余儀なくされている。 そしてオンラインで時間やコストを軽減できるという意見もある。 だが、一方で人間が社会生活を送る上でとても大切な能力が衰え始めていると私は感じる。それは文化的な暮らしをデザインし、実施する能力だ。 ゴリラなどの類人猿に比べ人間は圧倒的に自己を抑制して場の雰囲気に合わせる能力が高い。 故山崎正和さんは、私たちが文化的な生活を送る上で社交が欠かせないと強調した。 社交の場とは、音楽ホール、舞踏場、レストラン、酒場などが該当する。 社交は文化そのものだと山崎さんは言った。社交の積み重ねが文化として人が共感する社会の通底音になる。であれば、やはり人々は集まりリズムを共有する試みを怠ってはいけない。 社会的距離を適切に取りながらも、私たちは「集まる自由」を駆使して社交という行為を続けるべきだと思う。◆

 そうだ、ともすれば、これも危険だあれも危険だという慎重な意見こそが正解ないしは思慮深い意見だという容易い結論に急ぎすぎていないだろうか。私に答えがあるわけではないが、もっと愚直に議論をして、3人寄れば文殊の知恵ではないが、この1年の経験で少しは賢くなった何かを見つけ出したいものだ。

3 件のコメント:

  1.  今回の新型コロナウイルスに限らず、「ウイルス」についてはまだまだ未知の部分が多くあります。昨晩のEテレではウイルス自体が「密」を避けるため(宿主のアブラムシの増え過ぎを防ぐため羽根のないはずのアブラムシに羽根を生やさせ、他の植物に移動させるように仕向けるという事がわかっている、という話でした。
     恐るべき生き残り戦略、こんなウイルスとは闘うのではなく上手く共生していかなければならないように思います。そのためにはやはりワクチンと治療薬を手に入れることが先決だと思いますが取りあえずはワクチンの投与をして、新しい社会生活の基盤を作るための議論を開始できるような安心のできる環境を整えるべきではと、現時点では思います。

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  2.  ABCテレビ夕方のキャストだったかで、京都駅直結のホテルだったかが、3密を避けるパーティープランを始めたことを報じていたが、業者は業者で知恵を絞っているようだ。利用者も発想の転換が必要ではないでしょうか。 

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  3.  コロナとの共存という下で、こんな風に交流会ができないものか?という意見を欲しいなぁ☀️

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