2020年4月3日金曜日

八幡宮紙上逍遥

実際のバッジは小さなものです。
写真は加工してしております。
   43日は元々は石清水八幡宮へ遠足に行くはずだったが、あちこちで潜在的なコロナウィルス感染者が増えているので中止とした。
 そんなもので、少し寂しいので八幡宮を散歩しているつもりでコピペも含め雑文を綴ってみたい。
 
平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚が豊前国宇佐八幡宮にこもった際、八幡神が「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」と託宣したため、男山の峯に祀ったのがこの神社の起源であり、翌貞観2(860)年に朝廷が同所に社殿を造営し43日に遷座した。ナント!4月3日!
 その後朝廷の信仰厚く、国家鎮護、戦(いくさ)必勝、都の裏鬼門防御の神社として重きをなしてきた。

特に清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡神を氏神として全国各地に勧請し、源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗った。
さらに康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが鶴岡八幡宮の始まりで、鶴岡八幡宮は後に鎌倉幕府の宗社となった。
 つまり、石清水八幡も、鶴岡八幡も、全国には稲荷社に次いで多いと言われる八幡社も全て宇佐八幡の分霊である。
 
手向山八幡宮
   ところがこの宇佐八幡が、古事記にも日本書紀にも一度も名前の出てこないという不思議なもので、『宇佐八幡託宣集』によれば、「ある時鍛冶の翁の姿で現れ、辛国(からくに)の城(き)に始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり」と宣言したという。
 結論を急げば、この地に渡来していた新羅の人々の集団が祀っていた新羅の神様であったらしい。そしてこの集団は鍛冶の最新技術を持っていた。

菅公腰掛石(昨秋)
このたびは・・・・
   鍛冶の技術は、農耕にも、戦にも、そして新しい宗教である仏像の鋳造にも欠かせない最新科学で最新技術であった。
 それ故に、天平12年(740)には藤原広嗣の乱の際、朝廷は大将軍大野東人に対し宇佐八幡に祈願するよう詔(みことのり)を出している。
 こうして天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡より東大寺の守護神として勧請されたのが手向山八幡宮である。

 その後も宇佐八幡は朝廷の請願に対して数々の託宣を述べ、中でも、神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望んだが、宇佐八幡から派遣を求められ勅使として参宮した和気清麻呂は「臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。

道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流したが、やがて、称徳の死もあり道鏡は下野(しもつけ)薬師寺に左遷され事件は終結した。
奈良時代の終幕を飾る大事件であった。

 とまれ、新羅の渡来神を朝廷が乗っ取ったという説もある。八幡神は奥が深い。
 人間とは、お花見だって想像できる動物である。

   辛国の神の下僕のヘイト哉

2 件のコメント:

  1. 中止になったのですか。いろいろ準備をされていたでしょうに残念ですが原稿読むだけの記者会見やマスク2枚でやってる感ばかりでまともに対策を講じていないこの国の現状では勇気ある決断ですね。

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  2.  首相や知事・市長が自粛要請したから中止したわけではありません。
     彼らの言うデータが信用ならず、明らかにデータや報道された数字以上の感染が広がっていると判断しました。
     初期対応は、明らかにオリンピック中止にならないように情報を抑え込んだ結果だと思います。そのツケが今出てきているに違いありません。
     こういう時こそ、いろんな手法でみんなが主張すべきだと思います。

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