2020年4月23日木曜日

真似ぶ

 広辞苑でも「学ぶ」の①は「まねてする」とあるから「学ぶと真似るの語源は同根」という説はただの語呂合わせの俗説ではないようだ。

   コロナの新聞記事で西欧の院内感染かなんかで「靴底の泥が原因」というのを読んで、少し納得したことがある。

 というのは、① 日本会議仲良し内閣の全般的低能力、② 正常性バイアスに引きずられた非科学的判断、③ 医学や科学や統計や数値を軽視否蔑視する精神主義 ④ 習近平訪日を手柄にしたい思惑、⑤ オリンピック中止阻止を優先課題にした判断、⑥ 国民の命や生活を支えようと考えない新自由主義、等々の結果、まったく手遅れになった政府のコロナ対策にもかかわらずどうして日本の死亡者数が比較的少なく抑えられているかと考えていたからである。

 そもそもPCR検査をできるだけしないという方針で来ているから、感染者数も死亡者数も実態よりは少なく出ているが、それにしても・・・・と思っていた。

 これまで言われていたのは日本のCOOLとして、キスやハグといった習慣がない、元々手洗いの習慣がある、洟はティッシュで拭きハンカチで洟をかむ習慣が少ない、マスクに対して拒絶反応がない、うがいや外出自粛もアナウンスに道理があれば従う世論、というようなことだった。
 それに!、そう、玄関で靴を脱ぐという習慣を加えると、政府の愚策を補って余りある日本文化がコロナ対策上一定は有効だと考えられるのではないだろうか。

 ということで、学ぶは真似るで、玄関屋外泥落としマットを早速設置した。
 ここで泥を落とし、衣服をできるだけ叩き、玄関内には殺菌スプレーを置いてあるから、手洗い、うがいは少々順序がよくないが、まあまあ上等ではないかと思っている。

 手洗いでいえば、寺社の手水舎(ちょうずしゃ)が参考になるが、まさか玄関先に石をくりぬいた船を置いて龍の口から水を出したりはできないから、そういえば、バケツの底にカランがあってチョンと手で押すと少し水の出る「吊り手水」が田舎の昔はあったなと思って検索してみると、アウトドアの手洗い用に今様のものがあるが、今様のものはフォルム等が味気なく、それを玄関先に吊るのは止めにした。

 ある意味繰り返しになるが、古代国家が成立する時代から、感染症の流行は国家と為政者の重大事項であった。
 飛鳥の水の祭祀場や、その後の寺社の手水舎は、それに立ち向かった先人の知恵であったかもしれない。

   花冷えと言いたいがコロナ風邪

2 件のコメント:

  1.  本文で安倍政権の大失策の原因を6つ挙げたがもう一つ忘れていた。元感染研の白鴎大学岡田晴恵教授が告発していたことだが、初期段階で政府がPCR検査を広く実施しなかった理由は、感染研関係の有力なOBあたりが、後の自分たちの実績にするために民間に検査をさせず、データを独占するという利権がらみの方針を政府が取り入れたからだという趣旨のことを氏は語っている。この政権はほんとうに腐っている。

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  2.  内田樹氏の次の二つの指摘も本質を突いているように思う。
    ① 成功事例を学ばなかった一つの理由は安倍政権が「イデオロギー政権」だからです。政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。だから、たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性方が優先するのです。こんな馬鹿げた理由で感染拡大を座視した国は世界のどこにもありません。
    ② 安倍政権においては、主観的願望が客観的情勢判断を代行する。「そうであって欲しい」という祈願が自動的に「そうである」という事実として物質化する。安倍首相個人においては、それは日常的な現実なんだと思います。森友・加計・桜を見る会と、どの事案でも、首相が「そんなものはない」と宣告した公文書はいつのまにか消滅するし、首相が「知らない」と誓言したことについては関係者全員が記憶を失う。たぶんその全能感に慣れ切ってしまったのでしょう、「感染は拡大しない。すぐに終息する」と自分が言いさえすれば、それがそのまま現実になると半ば信じてしまった。

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