2016年8月6日土曜日

想像して行動する意味

 今日はヒロシマに原爆が投下された日である。
 ヒロシマの地では平和祈念式典も催されるが、原水爆禁止世界大会も開かれる。
 原水禁運動は日本人が世界に誇れる運動のひとつである。

 さて、遠い昔のことであるが、仕事つながりで広島や長崎の方々と話していたときに、原水禁大会のことについて「お客さんたちが集まってきて集会をしている感じ」と少し冷めた感想を聞いたことがある。
 「ピカッの恐怖など被爆者以外には解らない」とも聞いた。
 そういうことについては、大会参加者側にも努力が必要かもしれないが、「この当事者にしか解らない」「当事者以外の者が行う運動は嘘くさい」という言い方は、原水禁運動だけでなくいろんな場面で聞く。
 だがはたしてそうだろうか。

 そうだとすると、沖縄の辺野古基地や高江ヘリパットは沖縄県民しか抗議できないのだろうか。
 先日はヘイトスピーチを具現化した障害者大量殺傷事件が起こったが、それを批判するのは障害者運動関係者だけだろうか。もちろんそんなことはない。
 否、あの事件に関して障害者の家族がSNS等で「悲しいことだ」というと、「嘘をつけ。ホッとしているのだろう」的なヘイトスピーチが浴びせられているらしい。

 で、元に戻ると、ヒロシマに縁もゆかりもなかったが勉強をして原水禁運動に参加する若者は素晴らしい。沖縄に知人はいないが「基地をなくせ」と連帯する人々は素晴らしい。
 例の事件に関して言えば、当事者が口を開くには幾つかの心の壁がある。であるなら、健常者とその家族こそが先頭を切って声をあげるべきではないか。
 そのことを声を大にして言いたい。
 「踏まれた痛みは踏まれた者しか解らない」というのは誤りである。
 人間は、自身が踏まれなかっても踏まれた人の痛さを共感できる知恵がある。
 もっと言えば、いま自身が踏まれていなくても、想像して行動することが大人であろう。

 フクシマから遠く離れた人が仮設の人を思う。
 福祉の問題、介護の問題、保育の問題等等々、直接ぶつかっていない者こそ声をあげるべきでないだろうか。
 逆説的かもしれないが、大人というのは他人の不幸を共感でき行動できる人のことだろう。

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