お盆の14日、甲子園の高校野球が雷で一時中断していた頃、珍しく我が家周辺でも少しばかりの夕立があった。
一瞬だったが、ちょっとした突風が吹き周囲が結構暗くなった。
そして、その分厚い雲が過ぎようとしたとき、わが家の庭でヒグラシが大きな声で鳴き出した。
ひと雨のあとのかなかなしぐれかな 佐々木タ加子 ・・だった。
ツクツクホウシもいいけれど、蝉の中でもヒグラシの声は別格だと思う。
そんな気分を、先人はいったいどう感じていたのだろうとふと考え、幾つかの書籍をめくってみた。
そうすると、鴨長明が方丈記の中で「方丈の庵」の環境を説明するくだりに、「秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞こゆ」とあった。
私には、これが一番しっくりと理解できた。
やはり、ヒグラシは寂しい夕暮れと重なる。
西行にも、「ひぐらしの鳴く山里の夕暮れは風よりほかに訪ふ人もなし」がある。
だいぶ以前のことになるが、避暑地でヒグラシの大合唱を聞いたことがある。
それが、もちろん夕暮れにも鳴くのだが、私が驚いたのは早朝にも大合唱をすることで、私はそれをそのとき初めて知った。(その後は我が家でも早朝に聞いている)
そしてペンションのオーナーのいうのには、「朝方にヒグラシを聞くと、また暑い一日が始まるのかとうんざりする」というのだから、同じヒグラシの声でも時と場所・人によって感じ方はそれぞれだという感慨を深くした。
寂しさや無常観の欠片もない話だった。
だから、ものごとは固定観念(ステレオタイプ)で見てはならぬと反省させられた。
それから随分時も経った。
世の中を見ると若い頃信じていた「進歩」があまり実感できないというか、それどころか行く末に心配ばかりが気にかかる。
なのでどうしても今の私は、あのカナカナカナカナが、やっぱり「うつせみの世を悲しむかと聞こゆ」に感じてしまっている。
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