「オリンピックの君が代は、ついて歌うこともできないほど無茶苦茶にスローテンポやった」と、友人から教えてもらった。
興味のなかった私には初耳だったのでネットで調べてみると、それはJOCが用意したもので1分17秒とあった。
NHKの番組終了時等に流れるのが57秒らしいからスローテンポであったことは間違いなさそうだ。
ただ、法律にはテンポの定めがないということも知ったから、テンポは好みの問題かもしれない。
23日に朝日新聞が「スポーツと国歌」を大きく取り上げていた。
私には志田陽子氏の指摘が一番深い考えに裏打ちされているように思えた。
氏の発言を読むと・・・
オリンピック憲章第6条に「オリンピックは・・・選手間の競争であり、国家間の競争ではない」とあること、
同憲章で国際オリンピック委員会と組織委員会が国別のランキング作成を禁止していることなどを指摘していて目から鱗の感がした。
続けて、歴史を振り返れば、ナチスのようにスポーツや芸術が国威発揚や戦意高揚に動員されたため、五輪憲章も日本国憲法もその反省に立っているとの指摘も重要なことだろう。
なので、東京の組織委員会会長森喜朗元首相が「国歌を歌えないような選手は日本の代表でない」発言を大変残念なことだと批判していることは当然のことだと私は思う。
森喜朗氏はオリンピック憲章や日本国憲法の精神をわきまえておらず、その職責に相応しくない。
なので、森発言をはじめ、NHKが番組でオリンピックの意義を「国威発揚」だと堂々と不適当に解説したことや、民放も含めてやたらに「日の丸を背負って」というような言い方を繰り返したり、メダル至上主義の放送を繰り返したことを、オリンピックの個々のシーンに感動した人々はやはり理性的に批判する必要があるだろう。
自分の所属する集団や国や民族の活躍を喜ぶのは普通のことだろうが、過度にそれを強調するのは後進国(民族)だし田舎者だと私は思う。
というよりも、全体主義やヘイトスピーチと紙一重になる危険性を現代人は噛みしめる必要がありはしないか。
手放しのスポーツ礼賛、スポーツマンシップという言葉の多用の陰で、多くの種目で、勝利した日本人選手が、ともに闘った他国の選手に挨拶もせずにはしゃいでいた方が見苦しいし、その種の指摘がメディアから聞こえてこないのも悲しい。(一部の選手は試合後に互いの健闘を讃えていたが)
今回は柔道の吉田選手が銀に終わったことで見ていられないほど落胆していた。
過去には同じように期待されながらメダルが取れなかった選手が、国賊とまで批難され、ノイローゼになったという話も少なくない。
テレビを見ながら、日本という国の程度は辺境の後進国のままだろうかと寂しくなった。
「君が代」については明日に続く・・・
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