そんなものだから、観客ではなく主体的に、ささやかな送り火を庭先で焚いた。
この間から、誰もが当然と思っている共通認識も50年~70年経つと歪んでしまう※ことがあると書いてきたから、ただただ記録だけのためにお盆の思い出を以下に書いておくと、(※日本史の森をゆく)
旧堺市街に住んでいた我が家では、お盆の最後には市(いち)小学校近くのお寺に参るのが決まり事だった。
おぼろげな記憶を頼りに地図を探してみると、一光寺だろうか。私の記憶はもう飛んでしまっているので確定的ではない。
絵を描いた燈籠が提灯のように飾られ、とても賑やかな行事だった。
ここへ、家々からお盆のお供え物を持って行き、経木なんかと一緒に川に流してもらうのである。
精霊流しの一形式だっただろうか。昭和30年代までのことだった。
現代の地図でも、一光寺のすぐ近くに旧堺を取り巻く濠である土居川があり堺港への川筋があるからここであった可能性は高いと思う。
なので、お盆明けの大浜海水浴場にはその種の漂着物が流れついていた。
ということもあり、さらに土用波もあり、普通は海水浴はお盆で終了というのが一般的な了解事項だったような気がする。(ただし私は夏休みいっぱい泳いでいた)
ゴミではないがその種の物を川から海へそのまま流すのは如何なものかということで、「精霊流し」はほどなくなくなった。
なので堺で精霊流しがあったという、こんな話もそのうちに「なかったこと」になってしまうかも知れない。
精霊流しといえば少し違うが、昔8月6日にヒロシマの太田川で原爆死没者を慰霊する燈籠流しに参加したことがある。
送り火ではないが、こういう行事への参加を通じて世代の継承もできるような気がする。
私も多感な時代に原水爆禁止を胸に刻んだ。
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