オリンピックつながりで思ったことを書いてみたい。
高校野球ともダブっている。
「何時から日本人はこんなに〝負けたときに泣く”ようになったのだろう」という疑問である。
「従来の〝負けて涙を見せてはいけない”的な社会規範こそがタテマエ社会の象徴なのであって、悔し泣きできる今の方が素直で自然なんだ」という意見もあるだろうが、個人的には「負けて泣くな!」とテレビのこっちで呟いている。
どちらかというと私は涙もろい方である。映画やテレビで感動した場合には泣いてしまう。だから、金メダルであろうとなかろうと、勝ったときに泣く感情はよく分かる。そういう選手を見てこちらも感動して涙が出ることもある。
しかし、負けたことで泣くメンタルが私には解らない。そんなときは〝心の中で泣いて”納めるべきではないのか。
もしそれが、周りの重圧へのお詫びの涙だとしたら、一層鼻白む。
妻に「面白いよ」と教えてもらった朝日新聞25日夕刊の三谷幸喜さんのコラムが愉快だった。
マラソンの福士加代子さんの14位で終わった後のインタビューについてで、
「金メタル獲れなかったああああああ」と笑いながら叫んだそれに、その態度が不真面目だとパッシングが起っていることに「これが目くじら立てることなのか」と反論している。
福士さんは国内大会のときも「リオ決定だべ」と言ったが、これらを三谷さんは「照れ屋さんなのだろう。それに何か面白いこと言わなければ気が済まない性分が加わり、こうしたコメントになるのではないか」と分析し、当たり障りのない言葉に逃げない素晴らしさ、非難する人が出ることを分かった上で受けて立つ度胸と褒めたたえている。
三谷評あっぱれ! このコラムにメダルをあげたい。
それよりも、彼ら彼女らをして号泣させた歪んだ「周りの重圧」こそ分析し批判しなければならないのかもしれないが、それほどスポーツ界に詳しくないのでそれはおく。
重ねて言うが、おじさんは思っている。 負けて泣くな! 勝って泣け!
長谷やん、「負けて泣く」面白く読ませてもらいました。
返信削除記事の大筋では共感できる内容で、異論はないのですが、生来の「へそ曲がりの性分」もあり、「負けて泣く」か、「勝って泣く」か、それ以外の泣き方はないのか、とふと考えてしまいました。それというのもちょうど今、テレビでは女優の高畑淳子さんが、女性に対する息子の卑劣な犯罪について涙ながらの謝罪会見を放送していたからかもしれません。
このほかにも「泣いて有名になった人物」として、野々村元県議の「号泣会見」や、舛添元東京都知事の子供をネタにした都議会に対する「涙の恫喝答弁」が印象に残っています。
この3人の涙には誰も共感や同情をしないという共通点があるように思います。その理由は、3人の流す涙には、それによって何らかの効果を期待しているという「不純さ」が見え隠れしているからです。本来、流す涙には「感情の発露」としての「素直さ」や「純粋さ」が前提にあると思います。だから打算を伴う「嘘泣き」は誰にもすぐに見破られるのだと思います。
泣き方には、「素直に泣く」か、「打算で泣く」か、という分類もできるのではないでしょうか。
和道さんの最後の言葉(分類)、本当にそうですね。
返信削除それに「負けて泣かないのはひねくれ者だ」という指摘もあると思います。
でも、大の大人が(高校生もいるが)負けて泣くかと私は思います。
オリンピックはそれほど観ていないのですが、諸外国の選手も同じように負けて泣いていたのでしょうか?