数か月前に小笠原好彦先生から「黒塚古墳の被葬者を考えよ」という宿題が出されたので、改めて黒塚古墳、同展示館、山城の祝園神社 等を訪れ、このブログで2月17日『黒塚古墳の被葬者を考える』、2月21日『黒塚古墳の時代』を書き、骨子をいうと「古墳時代最初期である日本書紀崇神紀の大きな戦であった武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱に勝利した武人彦国葺(ひこくにぶく)こそが被葬者ではないか」と考え、その旨を記したペーパーを先生に提出しておいたが、先日の講座で先生から次のとおりの講義がなされた。
非常に粗っぽく聴いた骨子を書くと・・
1 黒塚古墳の石室には天井石がなく板石を合掌型に組んだものであって、それらのことから考古学会の定説は古墳時代最初期、3世紀後半の築造とされているが、最初期の前方後円墳の石室に天井石が用いられているものがあるから、合掌型の石室であることをもって最初期、3世紀後半と考えるべきでなく、多くの古墳の石室に天井石が採用されている時代(4世紀前半)ではあっても、例外的に、板石合掌型を好んだ工人集団によって築造されたものであろう。
2 柳本・箸中古墳群には40基ほどの前方後円墳があるが、このうち、大和平野の方向である西向きの古墳は、箸墓古墳、行燈山(あんどんやま)古墳(崇神陵か)、渋谷向山古墳(景行陵か)、という大型古墳と黒塚古墳の4基のみである。つまり黒塚古墳の被葬者は天皇に準ずる高位の人物と言える。
3 上記に相応しい人物を崇神、垂仁、景行紀に求めると、垂仁紀にある五十瓊敷命(いにしきのみこと)がいる。
五十瓊敷命は垂仁と日葉酢媛(ひばすひめ)の長男で、次男である景行(大足彦命・おおたらしひこのみこと)に天皇位を譲った者である。
後の例だが唐の李憲と玄宗皇帝の例では、李憲が没すると玄宗は譲皇帝(じょうこうてい)の諱(いみな)を贈り、皇帝の衣装を着せ、皇帝に準じて葬儀をさせた。
五十瓊敷命は景行にとっての李憲・譲天皇であったのであろう。
4 「西向き」の意味は、水野正好先生の意見にあるように、前天皇の葬儀が終わると新天皇の即位が周知され、新天皇は「国見(くにみ)」をしたであろう。故に柳本・箸中古墳群の天皇陵と推定される古墳は国=平野である西向きとなったのであろう。
・・・以上が骨子と思われるが、考古学的な証拠はもう一つ十分ではないように思う。
確かに、副将軍クラスの彦国葺にしては、立地条件がよすぎるという問題はあるが、四道将軍の例もあるから、そういうこともあったと考えられないか。
「合掌型石室をもって最初期・3世紀と断ずるのは早計」との指摘は傾聴に値するが、テーマは十分に解明されたようには感じない。
まあ、だから古代史は面白い。

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