28年前の(1995年)1月17日を体験するまでは「関西に大地震は来ない」と根拠もなく信じていた。大地震は東海、関東、東北のことだろうと漠然と思っていた。
大阪の私鉄では如何にも近鉄だけが「点検しながら細々と運行」していたので、とりあえず駅に行き、西大寺駅には下りずに始発駅の奈良駅まで行った(西大寺駅のホームは溢れて危険だった)。ダイヤは無茶苦茶だがとりあえず上本町に着き、さらには馬場町まで行くことができた。
入ったビル内では机やロッカーが倒れたり移動したり・・・。今日一日で片付くだろうかなどと考えながら作業をし始めていると、出先から電話が入り、「ガス工事会社や水道工事会社が神戸の復旧に入るが工事契約はない。死傷した場合の補償はどうなるか」と問い合わせ。
ここに書けば判り易いが、当時はほんとうに実情が何も判らず、兵庫にも東京にも電話は繋がらず、かといってあやふやな返事はできず、考え抜きながら大決断をした。
その夜は、不謹慎に思われるかもしれないが、ニュースを見ながら居酒屋でクールダウンをしなければ帰れなかった(理解してほしい)。
追記 あの日は、当時は現金での給与支払い日だったから、妻を含め各部署のその担当者は必死になって出勤した。その後の兵庫の支援活動などは、自分の家が被災して生活がままならない職員までもが東奔西走した。そういう非常事態の下で本来大事な職場の連帯に筋違いなヒビが入ったりして、しんどい時代だった。
もし同様の事態にが生じた場合は、現役の労働組合執行部は、経験ある大先輩の声も参考にしてもらいたい。少々は役に立つだろう。
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