今日は8月6日、広島に原子爆弾が投下された日。3日後の9日には長崎にも投下された。
それは私自身が生まれるほんの1年前(1945年)のことだが、若い頃の私にとっては時代劇を聞かされているようだった。幼児が「誰の世話にもならず自分自身で生きている」と思うようなものだ。
世の中も高度経済成長時代に突入し、みんな揃って「嫌な過去は忘れよう」という背景もあったと思う。
小学生になると(1954年)ビキニ環礁水爆実験で第五福龍丸被曝があった。「マグロを食べたらあかん」「雨にあたったらあかん」と報じられたが、一方で「放射能ぐらいで驚いていたら元気に生きていけない」というような大人たちの声も聞こえた。
結局、学習と共感力で人は大人になっていくのだと思う。
1978年第1刷発行の『広島・長崎―原子爆弾の記録』という本がある。当時の市民運動に支えられて発行されたもので、微力ながら私も参加した。
数枚の写真をスマホで撮って紹介する。顔をそむけないで欲しい。これは事実であったのだから。
1,2ページ目には小さな子どもの顏と次のような言葉が載せられている。
あの日
この子の前で
起きたことを
知っていただきたいのです
あなたに
そして
日本の子どもたちに
全世界の人びとに
全身ぼろぼろに皮ふがたれさがった少女=8月10日―11日。大村海軍病院で。
家の防空壕から逃げ出したものの、家の倒壊で脱出できず焼死したものと思われる。家族を探しにきたのだろうが若い女性がぼう然と、ただ、そこに立っていた。—長崎爆心地付近。8月10日。撮影:山端庸介
くる日もくる日も新たな死者の数がふえつづけていた。火葬が毎日どこかの空き地で行なわれていた。遺族の手で葬られるもの、最後の一人を見送る仲間、あるいは引き取り手のいない遺体…。まだ暑さの残っている秋の夕暮れ、肉親を荼毘に付す家族の姿は淋しかった=浦上町〈緑町〉(1.3km)。9月中旬。撮影:松本栄一
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