政府筋から発せられる「寄り添う」という言葉の寒々しさは多くの国民共通の感情だろうと思う。
いま丁度地方選挙の最中だが、橋下徹氏以降維新らによって唱えられている「民主主義は多数決だ」とか「多数決が民主主義」という声を聞いて、先の言葉同様、私は大きな違和感を感じている。
民主主義という社会学的な言葉の定義としても的外れであるばかりでなく、結局マジョリティーによるマイノリティー切捨ての免罪符になる危険性を感じるからである。
民主主義成長の要諦は、異なる意見の尊重、異なる意見間の議論だと思うのだが、どうしてかマスメディアの論調にそういう声を聞くことは少ない。
さて、学校には通常の小中高校とは別の特別支援学校がある。ここへ通う生徒は数でいえばマイノリティーといえよう。
しかし、先日朝日新聞に載っていた大森梓氏の指摘のとおり、障害のある子供はゆっくり成長するのであって、成長しない訳ではない。
ところが、「費用対効果」とでも言いたいのか、特別支援学校は需要にはるかに及ばず増やされず、教室も施設も放置されている。
こういう箇所に光を当てるのが近代国家であり福祉国家でないのか。
身を切る改革などと言って地方自治体を株式会社の論理で運営する。
そんな政治ははっきりと止めてほしい。
ナチスはユダヤ人ホローコーストの前に、「こういう障害者があなたの税金を食っている」という大キャンペーンを張ってホローコーストと同種のことを行なった。
統一地方選挙の中で殺伐とした議論がされるのは止めてほしい。
理性ある共産党の議員が延びてほしいと私が切に願っている所以である。
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