クイズで「近畿とはどこからどこまで」「関西とはどう違う」「三重県は近畿か」という問題が出されたりする。
おもしろいのは国土交通省で、例えば三重県の木津川は近畿地方整備局だが、国道は中部地方整備局が管轄している。
福井県の九頭竜川も何故か近畿地方整備局となっている。
普通には、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山を指すことが多いが、三重、福井、徳島などが含まれることもあり、一部の法律では更に広い場合もある。
近畿というのは畿内の近くという言葉だが、畿内とは、大宝律令が定めたいわば「首都圏」で、大倭,河内(後の和泉を含む),摂津,山背がそれで、その後一部変遷がある。
古代の大倭を考えると、山背は今の木津川市などほゞ一体の文化圏だし、河内と摂津は大陸に向けた大倭の玄関口に当たる。
いわゆる河内王朝論などは大倭の王朝に対しての河内と論を立てているが、河内(浪速津=摂津)失くして大倭はないのである。
解り切ったようなことだが、現代の都道府県の中で暮らしているとそういう当たり前の実態が見えにくい。
以上が前説(まえせつ)で、先日、信貴山・朝護孫子寺の舞台から眺めてみてそんなことをつらつらと考えたということ。
朝護孫子寺の舞台から南を見ると二上山がすぐ目の前で、信貴山と二上山の狭い谷間に大和川が流れている。古代の物流の中心は川だから、大和川は国道であり新幹線でありといったところだろう。ちなみに古代の国道長尾街道も通っている。
それは現代でさえ、国道25号線、西名阪国道、JR関西線(大和路線)、近鉄大阪線、近鉄南大阪線がひしめいているのだから、基本的には変っていない。
そして、登って来た基点が河内山本で、舞台の眺望は大和盆地だから、古代人が東から西へ、西から東へと(大和ー河内間を)移動している様が目に浮かぶ。
それ故、この地に古くから山城(やまじろ)が築かれ、戦国時代の天守を持った山城の先駆が建てられたということも腑に落ちる。
それにしても、一口に山城とはいうものの、登城は登山と全く変わらず、平成最後の年の軟弱者は古代人の脚力にただただ恐れ入るだけである。
その軟弱者は空鉢堂までの700mで完全に息が上がってしまい。この先に松永弾正の信貴山城の石垣があるはずという地点から、誰一人として「よし行ってみよう」の声も出ず、全員「見たこと」に共同幻想することにした。
ちなみに、舞台からは東のすぐ下には法隆寺、その南には大和三山の耳成山と天の香具山、その間の平地は藤原京だから、古都のほゞ全域を眼下に抑えた松永弾正が信長さえ恐れなかった気分も解らないこともない。
今は桜満開のお寺であるが、その昔は結構血なまぐさい要衝の地であった。
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