ネットで知った今年の京大の入学式の山極総長祝辞に感心した。
その部分を以下に紹介する。
さて、では常識にとらわれない自由な発想とはどういうことを言うのでしょうか。私が高校生だった1960年代に流行った歌があります。昨年ノーベル文学賞を受賞したボブディランの、
“How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
人間として認められるのに、人はいったいどれだけ歩めばいいの?”
という問いで始まる歌です。そして、
“How many ears must one man have
Before he can hear people cry?
人々の悲しみを聞くために、人はいったいどれだけの耳をもたねばならないの?
How many deaths will it take till he knows
That too many people have died?
あまりにも多くの人が死んだと気づくまで、どれだけの死が必要なの?”
と続きます。それは、
“The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind
友よ、答えは風に吹かれている”
という言葉で終わるのです。
これはボブディランが21歳のときに作った歌で、「答えは風に吹かれている」というのは、「答えは本にも載っていないし、テレビの知識人の討論でも得られない。風の中にあって、それが地上に落ちてきても、誰もつかもうとしないから、また飛んでいってしまう」という気持ちを表したものなのです。彼はこうも歌います。
“How many times can a man turn his head
And pretend that he just doesn’t see?”
(見ないふりをしながら、人はどれくらい顔を背けるのか ← 私の挿入)
そう、この歌は、誤りを知っていながら、その誤りから目をそらす人を強く非難しているのです。これは、1960年代に起こったアメリカの公民権運動の賛歌で、日本でも多くの若者が口ずさんだものです。
大学には、答えのまだない問いが満ちています。しかし、その問いに気づくためには、利己的な考えを脱ぎ捨てて、この世界を新しい目でながめる必要があります。常識にとらわれない発想とは、これまで当たり前と思われてきた考えに疑いを抱いたとき、それに目をそらさず、真実を追究しようとする態度から生まれます。どんな反発があろうと、とっぴな考えと嘲笑されようと、風に舞う答えを、勇気を出してつかみとらねばならないのです。これまで京都大学は、この精神のもとに多くの新しい発見や独創的な考えを世に出してきました。日本初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹先生は、京都大学教官研究集会で、「私たちの生きている、この世界に内在する真理を探究し、真理を発見し、学生たちに、後進の人たちに、そして学外の人たちにも、真理を伝達することが、大学の本来の使命である」と述べています。そこには、大学の知は私的な利益追求のためにあるのではなく、常に公共のため、社会のためにあるという矜持があると私は思います。
(引用おわり)
政治の世界では大嘘つきが跋扈している。
企業(職場)では姿の見えにくい「同調圧力」が首を絞めつけている。
それらは誰もが感じていることなのだが、少なくない人々はそれらを批判すべき矢面に立つのを避けている。
そして、戦後民主主義は満身に傷を受け、時代は戦前を刻んでいる。
山極先生の言葉は、世間一般の「一般人」が心に受け止めるべき喫緊の課題ではなかろうか。(明日に続く)
夜を裂いて絶叫届くやほととぎす
夜を裂いて絶叫届くやほととぎす
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