2016年3月2日水曜日

腑に落ちる最高裁判決

 最高裁第3小法廷は3月1日、非常に腑に落ちる逆転判決をくだした。良かったと思う。
 いうまでもないが、認知症の91歳の男性が線路に立ち入り、列車にはねられて死亡した事件で、1審ではJR東海の主張を認めて85歳の妻と長男に約720万円の損害賠償を命じていて、2審では同居していた妻のみに約360万円の支払いを命じていたが、最高裁は「家族というだけでは監督義務者に当たらず監督責任は及ばない」と逆転判決をくだしたものである。

 私は仕事をしていた頃、この種の「損害賠償と監督責任」に関わる仕事にも従事していた。典型的には「子どもが自転車事故で人を怪我させた、・・場合によっては死亡させた」場合の親の監督責任で、少なくない場合は驚くほどの損害賠償が親に対して裁判所等で認定されていた。
 怖ろしいという感覚でその実態を知っていたので、自分の子どもが未成年の頃は、子どもの自転車事故の損害(加害)賠償に対応できる保険には必ず加入していた。

 というような状況だったので、1審、2審の法理も解らなくもないという感じではあったが、当該事件に関して考えれば、認知症の高齢者を介護をしている家族には一瞬の注意の隙間も許されないのか、この国の司法と行政は老々介護の悲惨な現実をすべて家族に押し付けて知らぬ顔をするのかと、あまりに悲しい気分でいた。なのでこの最高裁判決は良かったと思っている。

 で、損害賠償を提訴したのはJR東海である。
 言わずと知れた国鉄民営化で生まれた会社だ。
 よく、市場原理主義・新自由主義の信奉者は「公営事業は融通が利かず民営化すれば円滑に仕事が進む」と言うが私は賛同できない。
 旧国鉄ならこんな非情な損害賠償の提訴はしていなかったと勝手に思っている。
 こんなことをいうと信じられないかも知れないが、「公」が裁判に臨むとき、この事案を敗訴することで社会がよくなり制度が改善されるなら敗訴も「あり」とする議論もある。
 「公か民か」というような単純な議論をするつもりはないが、「公」にも柔軟な発想はあるし、「民」にも非情な杓子定規があるということを言いたいだけ。

 だから単純な「官から民へ」とか、「身を切る改革」などという三文芝居の台詞を信じるのでなく、「官にも民にも民主主義を!」求めることが大切ではないだろうか。

 確かに世の中は単純ではない。形式的に論を展開すれば、この事故で発生した損害は実際にあるだろう。それは廻り廻って運賃に跳ね返ると言われればそうかもしれない。
 だが、「ああ可哀相な事故が起こってしまった」と認め合う社会の方が文明国家ではなかろうか。
 ということで、私は今回の最高裁判決を喜びたい。

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