2016年3月11日金曜日

「専門家」にまかせる卑怯

  「社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない」とは、宇沢弘文氏の有名な指摘だが、この文章の前には、「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない」という重要な大前提がついている。

 昨日、友人が【フクシマのボランティアに努力されている料理研究家の枝元なほみさんが『専門家と呼ばれる人にどれだけ嘘つきが多いかということを3・11で学びました。でも私たちは、まだ勉強して知識をもってからでないと発言してはいけないとみなが思っているのではないでしょうか。私は、生きものとしての直感で「体に害があるのをだれか隠そうとしてない?」「この期に及んで再稼働って普通に考えておかしくない?」とみながふつう言える空気をつくっていくことが大切だと思います』と言っていた指摘は大切なことだ】と教えてくれたが同感だ。

 原発を巡る多くの裁判では「専門家が集まって安全基準を作った」「専門家がその基準に合致していると認めた」「だから再稼働しても良い」という姿勢だったように思う。それは、一見客観的なように見えて実は卑怯な責任逃れだろう。
 それに対して大津地裁は、「関電はどのように安全なのかを私が納得できるように説明しなさい」と言ったように思う。
 裁判官が原発の専門家でないことは明らかだが、そのことを卑下もせず責任逃れもしなかったところがいい。人間こうありたいものだ。

 その一方、テレビに代表されるマスコミの卑屈な姿勢はどうだ。
 「地元の経済が冷えてしまうので残念だ」という「街の声」の放映にどんなジャーリズムとしての意義があるのか。「フーゾクの取り締まりが過ぎると経済が冷える」という歓楽街の「街の声」と何の違いがあろうか。

 元に戻って、原発村は「専門家が検討した結果だ」「なにも解らぬ下々(しもじも)は裁判官を含めて黙っておれ!」という姿勢だ。
 その「嘘」にひるんではならない。
 室井佑月さんではないが「何かおかしいのではないの」と口に出す素直さが大切なように思う。
 今日は3月11日、フクシマ原発事故から5年、おかしいことはおかしいということの大切さをもう一度噛み締めたい。

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