1月20日に「伊方の祈り」を書いたが、その記事の冒頭に書いた八幡浜市有権者の32%に達する市民から要請のあった伊方原発再稼働の可否を問う住民投票条例案が28日、市議会で賛成6、反対9で市長の意向どおり否決された。
利権に繋がるムラの圧力の結果だろう。
また1月29日、高浜原発が再稼働した。
フクシマ第1原発事故の折り、フクシマの人々が語る「東北電力ではないのですよ。東京電力ですよ。東京の人々のために東北の人々が泣いているのですよ」というような声がよくテレビで流されていたが、その伝でいけば、福井県の高浜原発は、「北陸電力ではないのですよ。関西電力ですよ」ということになる。
だがしかし、「都会の悪い奴らの為に純朴な田舎が犠牲になった」論に乗っかって意見をいえば、過疎化につけこまれたということはあろうが、札束に尻尾を振るような首長や地方議員を少なからず選んできた地元の責任はある。(都会の者に責任がないということを言っているのでもないが)
地元経済にとって必要悪で止められないというのは、覚せい剤依存症を肯定するのと変わらない。同種の意見を「街の声」だと言って垂れ流すマスコミもマスコミだ。
事故が起こってから「想定外だった」「知らなかった」と言ってすべて免罪されるわけではない。少なくとも、フクシマ以後の現下の再稼働に関わってはそう断言できる。
伊方にしても高浜にしても、マスコミ等では「絶体絶命」の30キロ圏の外はまるで安全であるかのような論調が振りまかれているのもおかしいことだ。
風向きと風速と地形で大きく異なることは小学生でもわかる。事実、フクシマ事故では200キロ前後の群馬県で高い汚染が観測されたりしている。
それどころか、フクシマ第1による汚染が最大規模のもので、あれ以上の飛散が今後ないという科学的根拠などどこにもない。
そこで高浜だが、近畿中部・南部の人間はなんとなく福井県イコール北陸のことだと認識していないだろうか。
実際には、福井県知事は高浜から概ね100キロ離れた福井市に居る。
その100キロ圏というと、滋賀県のほとんど全部、京都府のほとんど全部、大阪府の北半分、兵庫県の東と北の大部分が含まれている。フクシマでいえば那須塩原に相当する距離になる。
人間の脳というものは、あまりに悲惨な未来は想像しない、そういう情報はシャットアウトしようとするらしい。強度のストレスで鬱病(思考停止)を発症するのもそういうメカニズムだろう。
だから自分自身の壊れることを守るために、冷静に考えれば信用できないことでも、安心のために信じようとするらしい。
集団的原発性軽度うつ症状とでも言おうか。
だから、黙っていては流される。おかしいことはおかしい、信用ならんことは信用ならんと百も承知のことをお互いに口に出して言い続けることが大事だと思う。
以上、原発事故は桁違いに恐ろしいことだ、だからそんなことを考えるよりも、日本の技術水準からすると対応可能だ、フクシマの経験を踏まえたらこそ安全だろう、死亡者数は交通事故以下だ、などという言辞で自分自身を納得させようとしている。それは自然な脳のメカニズムであって、集団的な軽度うつ症状(防御のための思考停止)だと私は書いた。
だとしたら、メンタルヘルスの常識に属することだが、論駁してもその患者の症状は改善しない。それよりも先ずは傾聴だというのが定石だろう。そこが「メッセージの伝え方」の要石のような気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿