12月中旬の新聞に岩波書店の広告が出て、吉村武彦著『蘇我氏の古代』(岩波新書)が12月新刊と載っていた。
経験的には、この毎月中旬にでる広告を見て飛んでいっても未だ手に入らないので、12月末近くに発刊されるだろうとにらんで、年末に書店に行き、「もう絶対に発刊されているはず」と言って探してもらったら、ようやく奥の方から出してもらうことができた。(新刊がなかなか出てこない書店なんて・・・?)
私は年末も正月も特にない生活を送っているが、せっかくの新刊だからと、別に深い意味もないが正月から読みたくて12月中はあえて1ページもめくらずに飾っておいた。
そして正月を迎えて読み始めたのだが、これがけっこう学術的で読みが進まず、面白くないわけではないが近頃の本としては珍しく出だしから手古摺った。
スタート直後から、蘇我氏の「蘇我」は「氏(うじ)」であるが古代の氏は中国・朝鮮の影響を受けて成立したがその実態は異質なものだった・・というところから始まったので、頭の整理のために書架を掻き回して、「〝祖の名"とウヂの構造」(熊谷公男)という短くない論文(展望・日本歴史4「大和王権」東京堂出版)の読み直しからやり直した。
そんなこともありノツコツしながら読み進め、その分10日間ほどじっくり楽しませてもらった。
後半は歴史的な分析が中心になっていったので私の興味とも一致した。
そしてエピローグから引用すると・・・・・
蘇我氏は、壬申の乱以降、蘇我氏の名前で活躍することはなかった。
しかし、蘇我氏の足取りを振り返ったとき、日本の古代社会が、律令制国家の成立によって「東夷の小帝国」を完成させる直前まで、蝦夷や入鹿の横暴さにもかかわらず、日本列島の文明化に果たした役割は大きいものがあった。
とりわけ渡来系移住民との強いつながりと進取の気風、それが仏教受容への姿勢に強くあらわれたと思われる。
蘇我氏の本宗家が滅亡した改新後は、傍系が政権の大臣として相応の働きをしたが、旧来の氏族の殻を破ることはできなかった。
その点で、律令法の導入により、新たな官僚的氏族として羽ばたいた藤原氏とは、顕著な違いがでてしまった。
その藤原氏の生き方を、蘇我氏から改姓した石川氏が歩んでいくことになる。
新生の石川氏は、歴史の教訓を学んだと思われる。
「奢れる人も久しからず」とは『平家物語』のモチーフであるが、古代の蘇我氏の来し方には、まだ物語として文学化する歴史的条件はなかった。
蘇我氏の時代は、日本の国のかたちを整えていく上で、人の一生における青年期の初期にたとえることができるだろうか。・・と美しくまとめられていた。
それでハッとしたのだが、私などは何やかんや言いながら結構日本書紀史観に影響されているなと気がついた。
「蘇我氏の時代は日本のクニの青年期」などという素直な見方ができていなかった。
何となく刷り込まれている常識ほど怖いものはない。
なんとなく蘇我氏は悪役というイメージがあります。藤原史観ですね。
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