庭のミモザと私とは相性が悪かった。
放っておけばやたらと大きくなりすぎるし、剪定すると剪定した枝の周辺が枯れたりした。
その上に、その見事に黄色い花の満開は、杉やブタクサの花粉症を連想させたりした。
そんなもので此方が気に入っていないというのがミモザに伝わったかのように、思わぬ方向に枝を伸ばし、またあちこちの枝が枯れていった。
で、結局幹から伐採したのだが、野鳥の餌台を吊り下げるために、その柱代わりに一定の高さを残して伐採した。
その柱代わりの枯れ木にサルノコシカケが生えてきた。
面白いのでそのままにしてあるが、道行く人々は不思議そうに見つめていく。
腐朽菌はあまり目出度いものでもないから「阿呆な家だ」と思われてか、あるいは「癌に効く漢方薬(霊芝)」として値打ちがありそうだと思われてのことなのかは解らない。
元気な植物の一方で枯れ木に宿る茸があり、これが我が庭のコンセプト=諸行無常だと自分では言いたいのだが、気に入っていた樹木を何本も枯らしているのでただのやせ我慢のようにも思えて自省している。
「花鳥風月を言うようになったら人間終わりでっせ」と忠告してくれる友人もいるが、四季の移ろいは自然からの贈り物であり教師である。
開花にしても落葉にしても通常は1年に1回限りのことであるから、逆算すると私はこの光景をあと何回見ることができるかと考えると、一期一会を大切にしたいと考える。
劉廷芝は「年年歳歳 花相似たり」と歌ったがそんなことは全くない。花も人も「歳歳年年 同じからず」が真実だろう。
年賀状を基に住所録の手入れをしたりするとそんな実感が胸に広がる。
「同窓会をしたいものだ」という言葉が少なくなかったのも今年の年賀状の特徴だった。
返信削除誰もが、少し先が見えてきた、ラストチャンスに近いと感じ始めたからだろうか。