2016年1月1日金曜日

迎春

 月並みですが、明けましておめでとうございます

 写真のお猿さんは12年前の年賀状にも掲載したもので我が家の鬼門の守り神。
 夜中に市中に出かけてワルサをしないように金網に入れてある。
 そういう古い陰陽道の迷信など全く信じていないが、この国にそういう迷信があったという歴史をあれこれ考えるのが大好きなので鬼門の隅に鎮座してもらっている。

 申年なので今年の年賀状にはきっと三猿が多く登場していることだろう。
 「見ざる、聞かざる、言わざる」が、長いものには巻かれろ的に俗な処世術として理解されるのは論外だが、社会の巨悪に対して「今年はよく見て、よく聞いて、はっきり言っていく決意です」的な安易なコピーも少なくないように想像する。失礼。
 この三猿、古代エジプトやアンコールワットにも見られるものでなかなか奥が深い。

 日本では日光東照宮の左甚五郎作のものが有名だが、講談、落語、浪曲、松竹新喜劇などでは飛騨(高山)の匠といわれている左甚五郎のルーツが大阪の泉州にあると言うと驚く人が多い。
 和泉国三ツ松(大阪府貝塚市三ツ松)生まれ番匠・岸上甚五郎左義信・・・・十歳之節より日々山林に入、職分修業いたし夜々彫物等迄修業いたし十六歳之節大和国多武峰十三重塔建之、泉州堺妙国寺門建之、蟇股猿彫物刻之、伏見石清水八幡宮拝殿建之、彫物共彫刻之・・・・と、江戸和泉(岸上)家の由緒書にある。
 建築技術者集団の番匠であった永正元年(1504・室町時代)生まれの岸上甚五郎左義信の子孫が徳川幕府に招かれて江戸へ行き、和泉国の和泉と姓を変え、江戸城や東照宮の造営・造替工事に参画したのである。
 このため、泉州の「だんじり」や「ふとん太鼓」の彫物には素晴らしいものが多く、中には左甚五郎作というものもあり、その真偽は別にして、確かにその流れをくむ大工や彫物師の手によるものと思われるものがある。〔雑誌「堺・泉州」第3号見學稔氏の論文から〕

 まあ、こんなどうでもよいような記事(事実、甚五郎の出身地については各地に諸説ある)を今年も書き続けてみたい。
 だいたいがこのブログのコンセプトは「京阪奈の役にも立たない些細な日常」だから許してもらおう。
 記事の粗製濫造とのご忠告を聞き流し、「継続は力なり」と言い張ろう。そも「量質転化の法則」は弁証法の基本法則のひとつといわれている。これ牽強付会ですか。
 どうか、よければ今年もお付き合いをお願いします。

2 件のコメント:

  1.  朝から近所の神社やお寺を廻った後、ノンアルコールを半ダース持って義母の施設に行った。昼食がお雑煮とお節だったが義母はそれの流動食だった。それでも部屋のみんなで乾杯(義母を含めて何人かは本物のビールで)し、施設長らが獅子舞になって立派なお正月になった。

    返信削除
  2.  量質転化の法則を、私は立派な記事を1本書くよりも他愛ない記事を5本書く方が大事だと好き勝手に解している。そして、その積み重ねの上に質的変化が生まれると信じている。「その程度の他愛ない記事を書くことでどんな効果があるねん」と尋ねられると返す言葉はないが。

    返信削除