2016年1月22日金曜日

保良ばなし

 3年ほど前に『保良宮(ほらのみや)でホラを吹く―藤原仲麻呂の遷都計画―』という講義を奈良大学寺崎保広教授から受けたことがあるが、そのタイトルの奇抜さと私の基礎学力の不足のため、保良宮は、なんとなくパッとしない仮宮程度という理解で済ましていた。
 今回、考古学と文献史学を縦横に論じる小笠原好彦・滋賀大学名誉教授の『藤原仲麻呂と保良宮の造営』という講義を再び聴き、唐王朝の安史の乱を受け、新羅征討計画が具体化し、紫微中台の光明皇后・仲麻呂(恵美押勝)と、太政官の諸兄・豊成という両頭政治が微妙に進行する中で造営された、素晴らしい立地条件の宮であったこと、そしてその場所が、滋賀の石山・田辺台地(瀬田の唐橋の西南方向)の住友第2代総理事伊庭貞剛の別荘であった、現在の住友「活機園」の場所と想定されることを、数々の発掘成果をつなげて推理小説の謎解きのように教えていただいた。充実した講義だった。
 荒っぽく言えば、古い瓦の出る国分遺跡は国昌寺(国分僧寺)であろう、大きな礎石(へそ石)のある国分2丁目は石切り場(の少し下)であろう、石山寺は石山寺そのものであろう。そして、田辺台地の新幹線と名神工事で発掘された遺跡こそが保良宮であろう。そこは素晴らしい台地である。
 そして現在、先生も調査・研究中ということだが、なぜ伊庭貞剛が数ある土地の中からこの保良宮跡を選んで立派な別荘を建てたのだろうかという疑問には、先生同様に大きな興味が湧いてきた。
 続日本紀では悪者とされてしまった仲麻呂が、夢枕で伊庭に顕彰を頼んだのでは・・というとホラ話になるが。
  活機園の洋館は大阪の中之島図書館等を手掛けた野口孫市の設計になり、現在は重要文化財。


3 件のコメント:

  1. 少しマイナーなテーマのため年表をコメント!
    752(天平勝宝4)大仏開眼供養
    756(8)聖武太上天皇没
    758(天平宝字2)孝謙譲位、淳仁天皇
    759(3)「保良宮を造らしむ」
    761(5)「諸司に宅地を給はしむ」「淳仁天皇ら保良宮に御します」
    762(6)淳仁天皇と孝謙上皇不和・平城京へ遷都
    764(8)藤原仲麻呂の乱、淳仁廃帝、孝謙太上天皇重祚・称徳
    765(天平神護1)道鏡太政大臣

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  2. 活機園懐かしいです

    五十年前入行した当時会社の行事で数回行きました
    重厚な建物 広いお庭 新幹線の橋脚にビックリポン

    若さゆえか おしゃべりに夢中で室内の事を余り覚えていません
    只 凄い 流石 ○○だと

    歳を重ねた今だったらもっと 感じ方が違ったのでは


    又行く機会があれば じっくりと

    今日 奈良の東大寺近くの 新公会堂能舞台で
    古事記朗唱大会があります 四時位迄 入場無料
    旦那も 勿論参加

    若草山の山焼きで春日野園は混雑するかも・・・

    おいでませ 奈良へ (*´▽`*)

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  3.  活機園、素晴らしいらしいですね。機会があれば行ってみたいものです。
     山焼きも天気がもちそうですね。
     我が家近くから遠望します。

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