私の場合、お正月というと、三が日の初詣よりも十日戎の方がより親しい新年の行事のように感じている。
祖父以前が商家であった名残りなのだろう。
ということで、10日に京都ゑびすと八坂ゑびすのハシゴをした。
昨夏以降いろいろあったので夫婦で外出したのは半年ぶり。
大難小難。難はあったが考えようによっては小難?で今日を迎えられていることに感謝している。
ほんとうは世界の平和や広く国民の福祉の充実を祈願しなければならないのだろうが、今年はいたって小市民的に家内安全をお願いした。
もっと言えば、孫の凜ちゃんのことだけをお願いした。
この、それほど遠くない二つのえべっさんのハシゴのよいところは、京都ゑびす神社には社殿の横にドンドンドンと叩く場所があり、そこを叩いて耳の遠いえべっさんに「たのんまっせ」と言えること。やっぱりこれをしないとえべっさんの気分にならない。
八坂の方はこじんまりしている上に大黒さんもあり、えべっさんでも大黒さんでも参拝者一人一人に鈴を振ってお祓いをしてくれる。ただしその前に賽銭箱が置かれているのでなかなかロハでは素通りできないから小銭がいる。
福笹には今年は箕をつけてもらった。この種の吉兆は1~2点に抑えておくようにというのが家訓である。何かの年に派手につけて翌年減らすのは良くないという。道理である。
そして例年どおり先斗町で少し御酒を戴いて帰ってきた。
ご利益信仰など低レベルの精神かも知れないが、これで今年も頑張ろうと思えばいいかもと思っている。
非合理的な俗信とのご批判もあろうが、信仰だとか神詣りというよりも季節の年中行事だと感じている。
そもそもこういう年中行事というのは、庶民が神さんを出汁にして季節の折々に楽しむ口実ではなかっただろうか。
もしそうだったとしても、神も仏もそれだけでも存在意義があるように思ったりする。
ただその地で憲法改正の署名をするようなこと(神社本庁)は論外だが、ふたつのえべっさんではそういう場面がなかったので良かった。ニュースによると今年の初詣ではそういう光景があったようだ。
ただ近所では正体不明の「恵まれない児に」云々という例の寄付を募っていた。統一教会の行動だろう。
もう一つ気になったことは、人の流れが「空気」に大きく誘導されていること。
電車の窓から見た伏見稲荷も人が多かった。
先日来テレビで紹介された京都ゑびすも多かった。錦市場も。そして一歩横にそれた祇園白川は立派な街並みなのに人がまばらだった。マスコミ・・、テレビや雑誌が推薦する地に誘導されていることが明らかだった。
特定の観光地に誘導されている分には、戦場に誘導されるよりは何万倍もましだろうが。少し気にかかる。
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