2025年7月22日火曜日

忍熊王を推した訳

    富雄丸山古墳の被葬者について小笠原好彦先生が仲哀天皇の長男カゴサカ王を推定されたことはこれまでに書いてきた。同時に私がカゴサカ王の弟のオシクマ王を推定したことも・・・

 時期は佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群から百舌鳥古市古墳群に移行する直前。全国一の大円墳ということは、裏を返すと前方後円墳は許されなかった。それを文献史料からふるいあげると後の応神天皇(赤子)・神功皇后と争ったカゴサカ王かオシクマ王ということになる。(ここまでは小笠原先生と同じ)
 だから仲哀の正当な後継者候補カゴサカとオシクマが、神功が「仲哀の子だ」と称する赤子(異母弟としておく)を建てて東進してきたのに対抗したのは理解できる。
 そこでカゴサカとオシクマは戦の前に勝敗を占う狩り(うけひ)を行ったが、その折カゴサカは大きなイノシシに食い殺されてしまった。・・と記紀にあり、残ったオシクマが応神・神功・武内宿禰軍と戦い、結果的には謀略などもあり破れてしまった。
 現在、奈良市北部に押熊という集落が現存している。

 私の推理の前提はそれ以上のものではない。
 きわめて低レベルな感覚なのだが、戦本番の前にイノシシに食い殺されたカゴサカは、残された一族にとって誇らしい英雄に思えない。
 それに比べてオシクマは、記紀でも騙されて敗れたとあるし、とりあえずは敗軍ながらも一族の誇るべき英雄でなかったか。
 だからこそ、カゴサカなる地名は残らなかったが、オシクマという地名・集落は今もなお残っている。
 ・・・と、実に科学や証拠とは程遠い感覚でオシクマを推している。
 小笠原先生は「戦ったオシクマは謀反人だからもっと小さな円墳ぐらいしか許されなかっただろう」と解説されているが、脛に疵を持つ応神側にすれば、しっかりと怨霊を沈める必要があり、それが全国一の円墳の理由にならないか。

 実に非科学的な感想文でお恥ずかしいが・・・

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