7月10日に『小笠原古代史講座』のことを書き、先生の論文は戦前に津田左右吉が発禁処分や起訴という弾圧を受けたことを裏返したような大胆な指摘と問題提起だということを言った。
一言でいえば、戦前の皇国史観を否定するあまり、記紀の記述を傍証に使うなどというのは民主社会、実証主義の学問にあらずというような現代の「定説」?に大胆に挑戦しているからである。
先日から直木孝次郎著『白鳥になった皇子・古事記』を読み直しているが、例えば倭建命(ヤマトタケル)の冒険譚?は見事に物語ではあるが、太安麻呂は墓誌からしても実在したし、稗田阿礼の助けを借りて当時存在していた帝紀・旧辞を「再編集」したのが古事記であるから、最初期の大和王権が四方に軍隊を派遣して服属を迫った記憶の欠片(カケラ)が反映していると考える方が当然だろう。
ただ、昔に行けば行くほど神話と結んで編集されているから、史料とは大きくずれているのは当然で、それらを史料として扱うのには無理があろう。
とするならば、書紀でいう第10代崇神(すじん)天皇(御肇国天皇・はつくにしらすすめらみこと)が事実上の初代大王との説には合理性がある。それは3世紀後半~4世紀前半のことだろう。又それは、古墳時代前期といえる。
先日の小笠原先生の講義の最後に先生が、最初期の大きな前方後円墳の副葬品等の検討から、近江の雪野山古墳、安土瓢箪山古墳、大和の桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳、東大寺山古墳、伊賀の石山古墳の被葬者を、書紀崇神紀の「四道将軍」にかかる将軍や副将軍級の武人と推測するとの講義があり、それを論文にまとめたと話された。被葬者も推定されている。
その上で、その論文のコピー1冊を「読んでおくように」と私に渡された。
その内容は分厚い論文でそれぞれの古墳の被葬者にも及んでいるからここには記すことはできない(非常に多岐にわたる考古学的検討を重ねられている)が、非常に実証的な論理立てだと思われた。私は翌朝未明(夜中)に起きて、じっくりと読み進めた。
多くの受講者を差し置いて論文をもらうなど、光栄ではあるが変な責任?みたいなものを感じて青色吐息で重圧を感じている。
※ 日本書紀、崇神10年7月己酉条に、大彦命を北陸へ、その子の武渟川別を東海へ、吉備津彦を西道へ。丹波道主命を丹波へと、4人の将軍を任命・派遣したとある。
孝元7年2月丁卯条に記載があるが、大彦命を祖先とする、阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、越国造、伊賀臣らによる擬制的な同族関係が考えられる。 (各古墳の被葬者は皆さん一度考えてみてください。今日はここまで)

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