2025年3月4日火曜日

おお ひばり

    国松俊英氏の著書には「関東平野でヒバリが鳴きだすのは3月1日ぐらい」とあるが、ピッタリ3月2日にわが家近くでも鳴き始めた。
 何もかもが「東京標準」に誘導されている昨今、😡ヒバリよ、お前もか!と言うべきか・・・
 乱視のせいでもないだろうが、大音量で鳴いているのに目視できない。で、代わりに庭のカワラヒワの写真で勘弁していただこう。
 『ヒバリが空高く上がると晴天』と同じ著書にあるが、3月2日の天気は小雨に近い曇天。よって、この「ことわざ」の真偽は保留にしておく。

 ヒバリは、天の恵み 地の栄えを讃えて歌っている。


2025年3月3日月曜日

旧暦の絵暦

    空を見上げれば新月(朔)が1日、満月が15日(十五夜)だから、暦(カレンダー)が読めなくても旧暦はその限りでは便利だった。
 
 あとは閏月を知る必要があったが、そのためには絵暦(めくら暦)があり、大刀、小刀で大の月、小の月。人間の股で また→閏月。さらには、半裸の男が涼んでいて土用は年に4回だが典型的な夏の土用の入り。荷を奪う盗賊→荷奪い→入梅。禿げ頭で 禿げ生ず→半夏生となると、読み解くのも難しい。

 長沢工著『はい こちら国立天文台』では、原則として公的には存在しない明治5年改暦以後の旧暦(の換算)についての質問には答えないとあった。(市販の私的な出版物ではこう書かれているという扱い)
 ただし、在日韓国人は自分の誕生日を太陰太陽暦で記憶しているので換算をして回答したという。

 これに関係するともう一つ元号の問題がある。
 その著者は例えばこれまで「1968年十勝沖地震」などとしていたが、政府の指示で「昭和57年浦河沖地震」「平成6年北海道東方沖地震」というように変わっことを「科学の世界に無用なものを持ち込んだ」と批判している。科学的には途切れない年月が良いに決まっている。
 未来になって、今の私が例えば「天平13年、行基、狭山池というのは西暦なら何年?」と迷うように、「平成と令和はどっちが古い?」と迷う未来人も出てくるだろう。(AIが解決するとしても)

    元に戻って「絵文字」だが、これは暦だけでなく絵文字の「お経」なども実際に存在した。下の写真は「摩訶般若波羅蜜多心経」と読む。
 上の写真の暦の左下の、三重塔+琴柱(じ)で「冬至」のような「絵文字の暗号文」はみんな小学生のころよく作ったのではなかろうか。
 この文化の上に各種メールの「絵文字」が日本で発明され、今や世界標準になっているのはナルホドだ。
 ピクトグラムも含めるとすれば、絵文字こそ世界言語にならないだろうか。(しかし釜をひっくり返して魔訶というのは無理だろうね)

2025年3月2日日曜日

水に流す

    3月3日はひな祭り。由来は上巳の節句で、災いを人形(ひとがた)に移して水に流し去る素朴な行事。
 昨日は「陰陽道は平安時代」と書いたが、そもそもは中国の道教で、古墳時代からすでにこの地にも伝播していた。
 飛鳥が世界歴史遺産登録に向けて推薦されているが、飛鳥の石の遺跡は言い換えれば水の文化。
 それらのことごとを「古臭い迷信」と捨て去ると面白くない。
 コロナパンデミックを経験して思うのだが、村の出入り口に勧請縄や道祖神を設置するのは「人的交流の抑制」だろうし、水の祭祀は「手洗い励行」だったかもしれない。
 疫病の大感染は重大な脅威だっただろう。
 写真は平城京出土の人形で、いうならば「流しびな」のルーツのひとつ。

    もう「流しびな」に適する小川などはないから、庭のバードバスに浮かべることにした。
 災いは鳥が「根の国」あたりに運び去ってくれるだろう。

2025年3月1日土曜日

南都陰陽師

    奈良市で以前から気になっていたことの一つは、奈良町の「からくりおもちゃ館」の隣に鎮宅霊符神社があり、そのあたりの地名が「陰陽町」であることだった。
 奈良は古い都であるから当たり前のようにも見えるが、陰陽道(おんみょうどう)は平安期、つまりは京の都で発達したものだから、それがどのように古都(南都)に及んだのか、勉強不足のまま放っておいていた。

 さて、奈良市高畑にある奈良労働基準監督署などと道路を挟んで西側は紀寺という地名であるが、そこにバス停「幸(さいわい)町」がある。(幸町という地名は奈良市にはない)
 先日そのあたりにお住いの先生からそのいわれを聞いたところ、そのあたり(の一部)は、旧町名が幸町であるだけでなく、現代でも普通に幸町と呼ばれているらしい。まるでタイムスリップしたアンダーグラウンドだ。

 そもそも陰陽道・陰陽師のヒーローは安倍晴明だが、その師は賀茂忠行で、安倍晴明の家系は後に土御門家として隆盛を誇ったが、賀茂家の方は少し後方に下がり、その庶流の「幸徳井家」は南都にて南都陰陽師となった。
 そのため、その居所が「幸徳井町」と呼ばれ、その後、その簡素化された町名が幸町となって残っていたということだ。(今は紀寺という町名に吸収された)
 冒頭に言った陰陽町(いんようちょう)はそこから少し西に行った場所になる。
 そういえば、その近くで、中世の庶民信仰の遺物が豊富に残されている元興寺にも、道教・陰陽道の護符等の遺物が多いから、ナルホドと理解が進んだ。
 蛇足ながら、賀茂家の祖先は吉備真備と伝えられている。
 南都図絵にも吉備塚の前で祈る(南都)陰陽師が描かれている。
 それにしても奈良は面白い。古代や中世があちらこちらに顔を出している。