日本書紀は異例のことに巻第九を神功皇后だけに充てている。いうならば天皇扱いしている。
倭の五王の時代、百舌鳥・古市の巨大古墳時代のシンボル的な天皇である応神天皇のその母である。
ところが戦前の「神功皇后による三韓征伐」なる軍国神話の反省によるものか、「神功皇后は実在しなかった」「推古天皇をモデルにした伝説である」「斉明天皇の九州での急死と草壁皇子がモデルである」との説が現代の学会の主流というか大勢を占めている。
だが、潤色が濃いことと「実在しなかった」こととは全く異なるのではないか。
日本書紀の応神天皇は認めるが、その母である神功皇后の記述は全てが「架空の物語」である・・・だろうか。
神功皇后が各地の風土記にも登場している事実もある。
神功皇后の母は豪族葛城氏の出身である。葛城氏に想定されている大古墳も大和南部に少なくない。
その神功皇后が武内宿祢とともに、先に急死した仲哀天皇と大中姫との間に生まれていた皇子である麛坂皇子(かごさか王)忍熊皇子(おしくま王)と対決し、麛坂皇子は戦の前に死亡、忍熊皇子は戦で亡くなったと記紀には記されている。4世紀末葉のことになる。
それらのことから、4世紀末葉に、最有力な次期天皇候補でありながら、神功・応神に反旗を翻し戦になる以前に死亡した麛坂皇子とその皇后こそ、前方後円墳を許されなかった富雄丸山古墳の被葬者その人ではないだろうか。
先日、粉雪の舞う寒い日に富雄丸山古墳を見ながらそんなことなどを思い浮かべてきた。
ただ、造出しの埋葬施設とはいえ、皇后の埋葬に超巨大な剣と盾というのはなぜだろうか。多分に装飾的ではあるが。
記紀には、難波宮などで天皇の宮の玄関に大きな剣と大きな盾を立てたという記述があるが、だとすると、富雄丸山古墳を築造した一族は、「本来の天皇の宮」あるいは「黄泉の国での天皇の宮」と言いたかったのかもしれない。謎はまだまだ尽きない。
以上の論旨は、小笠原好彦先生の講義を踏まえて記述している。
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