日本書紀崇神10年9月6日条「九月丙戌朔甲午、大彦命を以て北陸に遣し、武渟川別を東海に遣し、吉備津彦を西海に遣し、丹波道主命を丹波に遣したまふ。・・・既にして共に印綬(しるし)を授ひて将軍と為たまふ」・・いわゆる四道将軍のことで、桜井茶臼山古墳は大彦命の、メスリ山古墳はその子である武渟川別の古墳である・・というのが小笠原好彦先生の主張。
その講義の折、時間がなく質問ができなかったが、その根拠をもっと知りたい。
先生は両古墳から出土した玉杖こそレガリア(王権の象徴)であり、これまでの学者が「単なる儀仗用の杖」と解していたので被葬者にたどり着けなかった」と・・。
だが、「しるし」とルビがあるが「印綬」は「印綬」ではないのか。
書紀編纂時には印綬がレガリアとの理解が広まっていたからそう書いたのか。
仮に水戸黄門の印籠にするには印璽の文字を相手側が読めずに効果を生じないからというのであれば、美しくはあるが「玉杖」であっても、相手側がそれを大王の将軍の身分証明書と理解できたのだろうか。
四道将軍を派遣して国を広げたという崇神を事実上の初代大王(後の天皇)であり、書紀の記述が歴史を一定反映しているということに同意はするが、もう少し考古学的な証明が欲しいものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿