2025年2月13日木曜日

山城国分寺

    過日、山城国分寺(やましろこくぶんじ)発掘調査(第106次)現地説明会に行ってきた。場所は木津川市加茂町の恭仁宮跡(くにきゅうせき)である。
 一言でいうと「山城国分寺の食堂(じきどう)と考えられる建物跡が見つかった」ということになる。
 写真は10時開始を前倒しして出発した第1班だから盛況だった。それにしても考古学ファンの平均年齢は高い。御多分に漏れずそのうちの一人だった。

 恭仁宮(きゅう)、恭仁京(きょう)は、天平12年(740)聖武天皇によって造営され、平城京から遷都したが、天平16年(744)には難波京へ、さらには平城京へ移った短命の京(みやこ)だが、その間に「全国に国分寺建立の詔」が出され、「墾田永年私財法」が定められるなどちょっとした歴史の舞台となっている。

 天平18年(746)恭仁宮跡は山城国分寺とされ、恭仁宮大極殿は山城国分寺の金堂とされた。このため全国屈指の国分寺が誕生した。
 今回の発掘場所は金堂の北東に当たることから、総国分寺である東大寺や各地の国分寺跡から見て食堂だろうと推定されている。

    次の写真は食堂とは関係ないが山城国分寺七重塔跡(1300年前から移動していない礎石群)で、あまりに立派なことに驚かされる。

 最後に恭仁京は、左京と右京が分れており、宮は左京にあり、さらには京の真ん中を東から西へ木津川が流れていて、藤原京、平城京、難波京あるいは後の平安京などから見ても特異な条坊となっている。
 それは前者が隋唐の長安城を模しているのに対して、恭仁京は隋唐の洛陽城をモデルにしたと小笠原先生は、副都制、三都制にも触れて論述されている。

 今は長閑なその地に立つと、それらの歴史が嘘のように感じられる。

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