2022年3月11日金曜日

牽牛子(けんごし)は朝顔

   牽牛子塚古墳の牽牛とは朝顔のことだから、昔からこれが八角墳であることは広く知られていたようで、現代人が発掘して「八角墳だ」と騒いでいるのを古代人らは雲の上から笑っていることだろう。

 発掘された平成22年(2010年)に騒いだうちの一人は私で、現地説明会の長い長い行列を思い出す。

 その牽牛子塚古墳が築造時のとおりに復元され、この3月6日から一般公開されている報道があった。もちろん行ってみたいが、密を避けて少し落ち着いてからと思っているうちに花粉の季節になり、絶対にモーレツな花粉を浴びることは必至だから今は我慢している。

 牽牛子塚古墳は斉明天皇陵というのが大方の見解である。それがこのように発掘されたのは、真の継体天皇陵と同じく、宮内庁が別の越智岡上陵(車木ケンノウ古墳)を斉明天皇陵と治定しているからである。

 しかしながら日本書紀によると、斉明天皇は天智6年(667年)に亡くなり葬られたが、古墳の分析で非常に論理的に主張をされている白石太一郎先生によると、石棺系横口式石槨の型式編年から、さらに唐尺でなく高麗尺を用いていることなどから、牽牛子塚古墳は7世紀第3四半期まで遡らないことは確実と述べられている。つまり、古墳は書紀よりも30~40年ほど新しすぎる、と。

 ところで、書紀、文武3年(699年)には、越智(おち)と山科の二の山稜を修造(営造)したとある。もしこの「修造」が大規模なものであり、斉明陵については元の岩屋山古墳から移設されたとすれば、パズルはパチッと当てはまる。

 飛鳥の現在は古代の風景が残っている。というか、その後の木々が歴史を覆い隠して守っている。あちこちの竹やぶの下に日本書紀が埋まっている。日本書紀には少なからず意図的な改ざんがあるが、全部まとめて捨て去るのは惜しい。花粉の季節が済めば牽牛子塚古墳を訪れたいと思っている。

 

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